北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)は第52代横綱。北海道旭川市の出身で、出羽海部屋から九重部屋へ移った。昭和45年(1970年)三月場所から昭和49年(1974年)七月場所まで横綱を務め、幕内優勝10回、生涯786勝427敗69休を残した。引退後は九重部屋で千代の富士と北勝海を育て、55歳で協会を退いてからは大相撲中継の解説者を長く務めた。2024年11月12日に82歳で亡くなっている。当サイト運営者の田口 通廣は、九重部屋の破門独立の直後に初優勝した昭和42年三月場所について「筆者にとってこれが最大の衝撃と感動となった」と書いている。
※戦歴の数字は日本相撲協会の歴代横綱プロフィール(2026年9月18日確認)から写した。協会サイトの「過去の成績」は平成25年以降しか無いので、場所ごとの出来事は田口の記名記事の記述を、引用と明示して載せている。現役時代は田口が土俵際で撮り始めた2007年より前なので、写真は解説者時代の1枚だけである。歴代横綱の一覧は初代明石から第75代大の里までに。
北の富士の基本データ|協会公式プロフィール(2026年9月18日確認)

| 四股名 | 北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)。しこ名履歴は竹沢 → 竹美山 → 北の冨士 → 北の富士 |
|---|---|
| 代 | 第52代横綱(昭和45年3月〜昭和49年7月) |
| 本名・出身 | 竹沢 勝昭・北海道旭川市 |
| 生年月日 | 昭和17年(1942年)3月28日 |
| 部屋 | 出羽海 → 九重 |
| 身長・体重 | 185cm・132kg(歴代横綱の体重ランキング) |
| 得意技 | 左四つ・外掛け・上手投げ |
| 初土俵/新十両/新入幕 | 昭和32年一月場所/昭和38年三月場所/昭和39年一月場所 |
| 新三役/新大関/新横綱 | 昭和39年三月場所/昭和41年九月場所/昭和45年三月場所 |
| 引退 | 昭和49年七月場所 |
| 優勝 | 幕内10回・十両1回 |
| 三賞・金星 | 殊勲賞2回・敢闘賞1回・技能賞3回。金星1個 |
| 生涯戦歴 | 786勝427敗69休(105場所) |
| 幕内戦歴 | 592勝294敗62休(64場所) |
出典: 日本相撲協会「第52代横綱 北の富士 勝昭」(歴代横綱・2026年9月18日確認)。協会のプロフィールには没年の欄が無い。逝去の日付は下の「解説者として」の節で、報道3社の一致した記述として示す。
上野駅で千代の山が待っていた入門から、破門独立の直後の初優勝まで|歩みの年表
| 時期 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|
| 昭和32年一月場所 | 出羽海部屋から初土俵。田口「昭和32年1月7日、北の富士は北海道から汽車に乗って上京した」「上野駅では同郷北海道の横綱千代の山が待っていた」 | 協会・田口 54622 |
| 昭和38年三月場所 | 新十両 | 協会 |
| 昭和39年一月場所 | 新入幕。前場所は十両で15戦全勝優勝(協会の十両優勝1回はこれ)。田口「終わってみれば13勝2敗と15日制になってから新入幕力士の最高成績となった」 | 協会・田口 45298・37754 |
| 昭和39年三月場所 | 新三役(小結) | 協会 |
| 昭和41年九月場所 | 新大関。田口「今ではありえない3場所28勝で大関に昇進した」 | 協会・田口 45298 |
| 昭和42年1月31日 | 九重(元千代の山)が出羽海部屋から分家独立し、北の富士も九重部屋へ。出羽海は承認と同時に一門からの破門を告げた | 田口 45298・54622 |
| 昭和42年三月場所 | 九重部屋として初めての場所で初優勝。大関4場所目。6連覇中の大鵬を止めた | 田口 45323 |
| 昭和44年十一月場所〜45年一月場所 | 連続優勝。田口「12勝3敗」「13勝2敗優勝」「13勝2敗優勝」 | 田口 45366 |
| 昭和45年三月場所 | 新横綱(第52代)。玉乃島(のちの玉の海)と同日昇進 | 協会・田口 18177 |
| 昭和45年五月・七月場所 | 横綱として連続優勝。田口「14勝1敗優勝」「13勝2敗優勝」 | 田口 45366 |
| 昭和46年十一月場所 | 玉の海の急死で一人横綱に。田口「直後の十一月場所こそ優勝した。だがその後4場所は乱調に陥った」 | 田口 45366 |
| 昭和47年九月場所 | 全勝優勝 | 田口 45366 |
| 昭和48年三月場所 | 最後の優勝 | 田口 45366 |
| 昭和49年七月場所 | 引退。田口「32歳であった」 | 協会・田口 45366 |
| 引退後 | 井筒部屋を興す。昭和52年10月29日に九重(元千代の山)が急逝し、両部屋を併せて九重部屋に。千代の富士・北勝海の2横綱を育てた | 田口 45392 |
| 平成10年(1998年)1月 | 年寄陣幕として協会を退職、55歳。NHKの大相撲中継の専属解説者に | 田口 45392・23758 |
| 2023年三月場所 | 田口「北の富士さんが解説者として姿を見せなくなったのが2023年三月場所からだった」 | 田口 45437 |
| 2024年11月12日 | 逝去、82歳。十一月場所の期間中だった | 報道3社・田口 45298 |
入門のきっかけを、田口は2026年の記事の冒頭に置いている。「昭和32年1月7日、北の富士は北海道から汽車に乗って上京した。出羽海(元常ノ花)部屋に入門するためであった。上野駅では同郷北海道の横綱千代の山が待っていた。北の富士こと竹沢少年は北海道での巡業中に、横綱千代の山から直接声をかけられ、スカウトされていた」(北の富士の金星配給率・2026年8月23日)。この千代の山が、のちに九重として出羽海部屋から独立し、北の富士の運命を動かすことになる。
出世は速かった。昭和38年十一月場所に十両で15戦全勝し、翌昭和39年一月場所に新入幕。田口によると「連戦連勝、終わってみれば13勝2敗と15日制になってから新入幕力士の最高成績となった。翌場所は小結だった」。大関昇進は昭和41年七月場所後で、「今ではありえない3場所28勝で大関に昇進した」(永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生 1・2024年11月27日)。協会の番付推移でも新大関は昭和41年九月場所である。
そして昭和42年、事件が起きる。当時の出羽海部屋には「分家独立を許さず」の不文律があり、九重(元千代の山)が独立を申し入れた。田口はその場の言葉を書き残している。出羽海は「君の申し入れた部屋の分離を承認する。ただし、要求した力士のなかに親が反対している者が3人いるから残すように。あとはよろしい」と言い、続けて「分離によって君と所属力士は出羽海、春日野といった一門からはずす。いいな」と告げた。「名門からの破門宣告であった」(同・45298)。九重部屋は高砂一門に入り、北の富士は大関のまま九重部屋の力士になった。
破門直後の昭和42年三月場所。田口はこの場所を「筆者にとってこれが最大の衝撃と感動となった」と書く。「この場所の北の富士は目つきと気合が違った。初日から突っ走って12連勝」。一方の大鵬は6連覇中で35連勝を意識し、浅瀬川に敗れた。「千秋楽北の富士は柏戸に勝ち、ついに初優勝を達成した。大関4場所目であった。大鵬の7連覇は北の富士によってストップされた」。十両では松前山が優勝し、「涙をこらえられなかった元千代の山の九重と北の富士ががっちり握手した光景は強烈な印象を与えた」(永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生 2・2024年11月29日)。相撲ジャーナリストの杉山桂四郎氏が北の富士を「循環気質」と評したことも、田口は同じ記事で紹介している。燃える要素があるときはやる気が違う、という意味である。
清國の優勝に燃えて横綱へ|玉の海との同日昇進と「イレブン横綱」
初優勝は昭和42年三月場所、横綱昇進は昭和45年一月場所後で、その間は3年近くある。きっかけを田口は昭和44年七月場所に置く。柏戸が引退し、大鵬は晩年で、新大関清國が優勝した場所である。「これに対しのんびり屋の北の富士が燃えた。『清國一人に甘い蜜を吸わしてなるものか』ここからの北の富士の急変とも思える快進撃が始まった」。九月場所12勝3敗、十一月場所13勝2敗で優勝、昭和45年一月場所13勝2敗で優勝、そして横綱昇進。昇進後も三月場所13勝2敗、五月場所14勝1敗で優勝、七月場所13勝2敗で優勝と続き、「このころの北の富士が最も充実していた時期だった。一年間で78勝12敗の成績であった」(永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生3・2024年12月2日)。
横綱昇進は昭和45年一月場所後で、玉乃島(のちの玉の海)との同日昇進だった。田口は2人の昇進の内容を並べている。「北の富士が12勝-13勝優勝-13勝優勝と連続優勝で横綱に昇進したのに比べ、玉乃島は13勝優勝-10勝-13勝優勝同点とやや甘い昇進であった」。横綱になってからの最初の3場所も北の富士が先行した。しかしそのあと、田口の言葉では「玉の海の逆転が始まる」。「対して北の富士は11勝-11勝-11勝-11勝とすべて11勝でイレブン横綱と言われた。玉の海は腰で取る相撲であり、北の富士はスピードで取る相撲であった」(ライバル差がつくとき 玉の海 北の富士・2017年6月11日)。
その玉の海は昭和46年九月場所を最後に土俵へ戻らなかった。一人横綱になった北の富士について、田口は短く書いている。「一人横綱となった北の富士は直後の十一月場所こそ優勝した。だがその後4場所は乱調に陥った。昭和47年九月場所全勝優勝で復帰した。翌年の昭和48年三月場所が最後の優勝となった。昭和49年七月場所を最後に、土俵を去った。32歳であった」(45366)。玉の海との対戦は、優勝決定戦を含めて北の富士の23勝21敗である。田口は「玉の海が生きていたら間違いなく幕内対戦50回を超えていた」と書いている(37788)。玉の海その人の記事は、このシリーズで第51代横綱 玉の海として別に立てた。
幕内対戦50回以上が2人|清國と37勝15敗、琴櫻と29勝21敗
田口は「幕内で50回以上対戦するのは大変なことである。地位が接近し、なおかつ休場が少ないと実現しにくい。大鵬には幕内対戦50回以上はなかった」と前置きして、北の富士の2人を上下2本で追っている。1人目は清國。初顔は昭和39年一月場所で、押し倒しで清國が勝った。「北の富士対清國は初顔から19場所連続対戦した。この間北の富士は大関に昇進している。関脇以下の対戦同士は北の富士の11勝5敗であった」。大関対関脇以下は北の富士の12勝4敗、大関同士は3勝1敗、横綱対大関は11勝5敗。「2人の対戦は互いにすれ違い休場をするなか、昭和49年一月場所、清國の引退で永遠に終止符をうった。北の富士はその3場所後に引退した。対戦成績は、北の富士の37勝15敗で対戦は実に52回に及んだ」(北の富士の幕内対戦50回以上 上・2022年12月17日)。
2人目は琴櫻。初対戦は昭和39年十一月場所で、北の富士が前頭筆頭、琴櫻が12枚目。「普通なら対戦する地位ではないなかで実現した」。関脇以下同士では北の富士の7勝3敗、大関同士では10勝4敗と北の富士がリードした。差が縮まるのは北の富士が横綱になってからで、横綱対大関は7勝7敗。「横綱同士の対戦で逆転した。北の富士の1勝4敗である。全勝優勝を千秋楽に琴櫻にストップされたことがあった」。2人は昭和49年七月場所に揃って引退し、「通算対戦成績は優勝決定戦・不戦勝を含み、北の富士の29勝21敗で終わっている」(北の富士の幕内対戦50回以上 下・2022年12月20日)。
| 相手 | 地位の組み合わせ | 北の富士から見た成績 |
|---|---|---|
| 清國 | 関脇以下同士 | 11勝5敗 |
| 大関 対 関脇以下の清國 | 12勝4敗 | |
| 大関同士 | 3勝1敗 | |
| 横綱 対 大関清國 | 11勝5敗 | |
| 通算52回 | 37勝15敗 | |
| 琴櫻 | 関脇以下同士 | 7勝3敗 |
| 大関 対 関脇以下の琴櫻 | 4勝3敗 | |
| 大関同士 | 10勝4敗 | |
| 横綱 対 大関琴櫻 | 7勝7敗 | |
| 横綱同士 | 1勝4敗 | |
| 通算50回(優勝決定戦・不戦勝を含む) | 29勝21敗 |
優勝10回と金星配給率9%|記録の位置づけ
| 項目 | 数字 | 出どころ(記事ID) |
|---|---|---|
| 幕内優勝 | 10回 | 協会プロフィール。田口の記事にある初優勝は昭和42年三月場所、最後の優勝は昭和48年三月場所(45323・45366) |
| 十両優勝 | 1回 | 協会プロフィール。田口「十両の15戦全勝優勝は栃光、豊山についで史上3人目であった」(37754) |
| 生涯戦歴 | 786勝427敗69休(105場所) | 協会プロフィール |
| 幕内戦歴 | 592勝294敗62休(64場所) | 協会プロフィール |
| 三賞・金星 | 殊勲賞2回・敢闘賞1回・技能賞3回。金星1個 | 協会プロフィール |
| 横綱在位 | 昭和45年3月〜昭和49年7月 | 協会プロフィール。在位場所数は協会に記載が無いので書かない |
| 大関昇進前3場所 | 28勝 | 田口「今ではありえない3場所28勝で大関に昇進した」(45298) |
| 横綱昇進前後の6場所 | 78勝12敗 | 田口の集計。昭和44年九月場所から昭和45年七月場所まで(45366) |
| 横綱時代の平幕戦 | 171勝15敗・金星配給率9% | 田口の集計(54622) |
| 清國との幕内対戦 | 52回・北の富士の37勝15敗 | 田口の集計(37754) |
| 琴櫻との幕内対戦 | 50回・北の富士の29勝21敗 | 優勝決定戦・不戦勝を含む。田口の集計(37788) |
| 玉の海との対戦 | 北の富士の23勝21敗 | 優勝決定戦を含む。田口の集計(37788) |
横綱時代の平幕戦を、田口は金星の側から数えている。「北の富士の金星配率をみていこう。横綱時代の平幕戦は171勝15敗であった。金星配給率は9%であった。平幕戦が7番あれば0.6個提供していることになる。北の富士は横綱時代8勝7敗が1場所ある。それでいて金星0であった。すべて三役以上に負けた黒星だった。福の花、長谷川、長浜豊山が2個獲得している」(北の富士の金星配給率)。同じ物差しで並べた横綱は玉の海・現役横綱の記事にもある。
取り口は、田口が玉の海と比べて一言で書いている。「玉の海は腰で取る相撲であり、北の富士はスピードで取る相撲であった」(18177)。協会が記録している得意技は左四つ・外掛け・上手投げである。休場については、北の富士自身が2020年11月に東京中日スポーツのコラム「はやわざ御免」に書いた内容を、田口が記事に写している。「私もけがで休みたいときもあったが、大関で休場したことは一度もない。土俵に上がると痛さを忘れる時もある」。正代が新大関で休場した日の記事で、田口は「昔の力士気質は遠くなってしまったということか」と受けている(十一月5日目 北の富士さんの戒め・2020年11月12日)。協会の表示は生涯69休・幕内62休で、その休場が横綱時代のものか関脇以下のものかは協会の表示からは分からない。
九重部屋で千代の富士と北勝海を育て、55歳で解説者に
引退した北の富士は井筒部屋を興した。田口によれば、九重(元千代の山)は「自分についてきてくれた北の富士を快く送り出し独立させた」。ところが井筒部屋独立から約2年9か月後の昭和52年10月29日、九重が51歳で急逝する。「九重部屋と井筒部屋が併合し、九重部屋としてスタートすることになった」。ここから2人の横綱が出る。千代の富士については「投げ中心の相撲で脱臼癖があった。これを筋肉の鎧を身に着け、前みつを取って出る相撲に変えた」。北勝海については「激しい稽古で自己の限界以上の力を発揮した。ぶつかり稽古はすさまじかった」「北勝海と千代の富士で九重部屋10連覇を成し遂げている」(永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生4・2024年12月5日)。2人の記事は第58代横綱 千代の富士にある。田口はほかに育てた幕内力士5人の名も挙げている(45392)。
協会を離れたのは平成10年(1998年)1月、55歳のときである。田口は理事選挙の経緯の中でこう書いている。「高砂一門の理事立候補からはずされた陣幕(元北の富士)は自分を推さなかった裏切りに嫌気がさしたのだろうか、しょせん自分は外様と思ったのだろうか、突然退職した。『なにも辞めなくても』と境川(元佐田の山)は惜しんでいた。これをみたNHKの行動は素早かった。北の富士を専属解説者として獲得したのだ。北の富士55歳のときであった」(高砂の系統11・2020年7月11日)。「嫌気がさしたのだろうか」は田口の推量で、本人が理由を語った記述は当サイトには無い。
解説者として、そして2024年十一月場所の途中で
解説者としての北の富士を、田口は永眠シリーズの最終回でこう書いている。「言語明瞭で聞きやすい語り口だった。きびしくも暖かく力士を評した。ときにはユーモアをまじえるユニークさがあった。自分の昔話を話すこともあり、知られざる北の富士に触れることがあった。解説者は長期に及んだ。55歳からスタートして80歳になった」。上の写真はファイル名の日付では2019年の十一月場所十三日目に田口が撮ったもので、当サイトの記事では「解説者北の富士さん」のキャプションで何度か使われている。姿を見せなくなったのは2023年三月場所からで、「最初は一時的なお休みかなと思った。かつて手術で休場したことがあったからだ。だが、今度はそうではなかった」。2024年の七月場所初日にはVTRで登場したという(永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生5・2024年12月9日)。
訃報が伝えられたのは2024年の十一月場所中だった。日本経済新聞(2024年11月20日・共同)、中日スポーツ、東京新聞の3社が、11月12日に82歳で亡くなったと報じている。協会の歴代横綱プロフィールには没年の欄が無いため、この記事の日付と年齢は報道の一致した記述による。田口は第1回の冒頭で「近年解説者として姿を見せることがなくなった北の富士さん。十一月場所中、突如訃報が伝えられた。82歳の生涯であった。80歳以上生きた横綱としては6人目であった」と書き、最終回をこう閉じている。「渋い和服やダンディーなスーツ姿はもう見られない。北の富士さんを待ってサインを求めていたファンの姿はもうない。爽やかな語り口は永遠に失われた。さようなら北の富士さん」(45437)。
北の富士についてよくある質問
Q. 北の富士は何代目の横綱ですか?
第52代です。昭和45年三月場所に昇進し、昭和49年七月場所で引退しました(協会プロフィール)。第51代玉の海とは同日昇進で、次が第53代琴櫻です。
Q. 優勝は何回ですか?
幕内優勝10回、十両優勝1回です(協会プロフィール)。田口の記事にある初優勝は昭和42年三月場所、最後の優勝は昭和48年三月場所です(45323・45366)。
Q. 出羽海部屋から九重部屋へ移ったのはなぜですか?
昭和42年に九重(元千代の山)が出羽海部屋から分家独立し、同郷の北の富士も九重部屋へ移りました。田口は出羽海が独立を承認しつつ一門から破門した場面を書いています(45298・54622)。
Q. 育てた横綱は誰ですか?
千代の富士と北勝海です。田口は「北勝海と千代の富士で九重部屋10連覇を成し遂げている」と書いています(45392)。
Q. 解説者になったのはいつですか?
平成10年(1998年)1月、55歳で協会を退職したあとです。田口によると「解説者は長期に及んだ。55歳からスタートして80歳になった」(45437)。
Q. いつ亡くなりましたか?
2024年11月12日、82歳です。日本経済新聞・中日スポーツ・東京新聞の3社が同じ日付と年齢を報じています。協会の歴代横綱プロフィールには没年の記載がありません。
Q. なぜ写真が1枚しかないのですか?
当サイトの写真は運営者・田口 通廣が撮ったものに限っています。田口が撮り始めたのは2007年からで、北の富士の現役(昭和39年〜49年)はそれより前です。載せている1枚は2019年、解説者席のものです。
▶ 歴代横綱シリーズ:歴代横綱一覧|初代明石から第75代大の里まで/第35代 双葉山/第48代 大鵬/第51代 玉の海/第55代 北の湖/第58代 千代の富士/第64代 曙/第65代 貴乃花/第68代 朝青龍/第69代 白鵬/第70代 日馬富士/第71代 鶴竜/第72代 稀勢の里/第73代 照ノ富士/第74代 豊昇龍/第75代 大の里
▶ 田口の北の富士論:永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生 1/2/3/4/5/幕内対戦50回以上 上/下/ライバル差がつくとき 玉の海 北の富士/北の富士の金星配給率/高砂の系統11/十一月5日目 北の富士さんの戒め