MENU

永眠北の富士その力士・親方・解説者の一生3

燃える要素がある時の北の富士は強い。昭和42年三月場所初優勝か
らかなり時間が経過した昭和44年七月場所が燃えるきっかけになっ
た。時代は進み、柏戸はこの場所引退した。大鵬は晩年に入ってい
た。そんな中で新大関清國が優勝した。清國に新横綱の期待がかか
った。

これに対しのんびり屋の北の富士が燃えた。「清國一人に甘い蜜を
吸わしてなるものか」ここからの北の富士の急変とも思える快進撃
が始まった。それはとてつもなくすさまじかった。

<北の富士>

九月場所 12勝3敗
十一月場所13勝2敗優勝
昭和45年
一月場所 13勝2敗優勝
横綱昇進
三月場所 13勝2敗
五月場所 14勝1敗優勝
七月場所 13勝2敗優勝

このころの北の富士が最も充実していた時期だった。一年間で78勝
12敗の成績であった。

この後玉の海の逆転が始まった。14勝優勝-14勝優勝-14勝-14勝
優勝と抜群の安定感を示した。対して北の富士は11勝-11勝-11勝
-11勝とすべて11勝でイレブン横綱と言われた。玉の海は腰で取る
相撲であり、北の富士はスピードで取る相撲であった。その後北の
富士は15勝優勝-8勝-15勝優勝と優勝回数は北の富士が先行した。
玉の海は13勝-15勝優勝-12勝と安定感は玉の海がはるかに上回っ
た。

だが、玉の海は昭和46年九月場所を最後に再び土俵にあがることは
なかった。玉の海はある病にかかっていた。それも早く治療してい
れば悲劇は訪れなかったろうに、と悔やまれる。玉の海は虫垂炎を
患っていた。玉の海は持ち前の責任感から切らずに注射で散らして
いた。それが夏の巡業、九月の本場所と長期に渡っていた。

結局玉の海が入院したのは10月4日であり、手術は6日になった。
虫垂炎の手術だから大事にはいたらないと誰しも思った。だが、そ
れから5日後の10月11日、様態は急変した。思いがけず、右肺動脈
幹に発生した血栓症が原因で横綱玉の海は帰らぬ人となった。

<北の富士?

一人横綱となった北の富士は直後の十一月場所こそ優勝した。だが
その後4場所は乱調に陥った。昭和47年九月場所全勝優勝で復帰し
た。翌年の昭和48年三月場所が最後の優勝となった。昭和49年七月
場所を最後に、土俵を去った。32歳であった。

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次