北の富士の金星配給率

昭和32年1月7日、北の富士は北海道から汽車に乗って上京した。
出羽海(元常ノ花)部屋に入門するためであった。上野駅では同郷
北海道の横綱千代の山が待っていた。北の富士こと竹沢少年は北海
道での巡業中に、横綱千代の山から直接声をかけられ、スカウトさ
れていた。北の富士が大きな渦に巻き込まれる運命になるとはこの
ときまだ気がつかなかった。

北の富士
北の富士

昭和35年元常ノ花の出羽海が十一月場所の千秋楽の翌日、温泉旅館
で胃潰瘍のため急死した。候補者は2人いた。元出羽ノ花の武蔵川
(51歳)と元千代の山(34歳)の九重である。12月18日まず、平年
寄12人が話し合いの場をもち、続いて12月20日全年寄21人、全関取
8人が集まって会議となった。その結果後継者は武蔵川に決まった。
次の出羽海は自分という思いが九重にはあった。だが、それはある
策によって打ち砕かれた。

昭和38年4月、大関佐田の山が出羽海の市川家に婿入りしたのだ。
さらに昭和41年9月に鉄筋ビルにつくりかえたとき、部屋の名義は
横綱佐田の山のものになっていた。これは出羽海の資金力によると
ころが大きいのだが、これで九重の出羽海継承の可能性は完全にな
くなった。当時の出羽海部屋は分家独立を許さず、といいう不文律
があった。

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元出羽ノ花
元出羽ノ花

九重は昭和41年8月時点で独立の腹を固めていた。九重が独立した
場合、同郷の北の富士、禊鳳、松前山の気持ちを確認する必要があ
った。新聞には九重についていく力士の名が出ていた。昭和42年1
月31日午後4時3階大広間で出羽海は低頭する九重を前にして口を
開いた。「君の申し入れた部屋の分離を承認する。ただし、要求
した力士のなかに親が反対している者が3人いるから残すように。
あとはよろしい」さらに出羽一門を破門することを加えた。英断で
あった。認められなければ九重は力士を連れて脱退し、お家騒動覚
悟であった。

破門独立直後の昭和42年三月場所で大関北の富士は燃えていた。燃
える要素があるときの北の富士は強い。大鵬は6連覇中であった。
その大鵬をおさえて初優勝してしまった。九重は涙ながらに北の富
士と握手した。これほど感動的な優勝はなかった。十両では九重に
ついてきた松前山が優勝した。

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北の富士
北の富士

北の富士の金星配率をみていこう。横綱時代の平幕戦は171勝15敗
であった。金星配給率は9%であった。平幕戦が7番あれば0.6個
提供していることになる。北の富士は横綱時代8勝7敗が1場所あ
る。それでいて金星0であった。すべて三役以上に負けた黒星だっ
た。福の花、長谷川、長浜豊山が2個獲得している。

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この記事を書いた人

少年漫画雑誌、日経関連の編集者を経て独立。現在は大相撲を専門に取材するライター。ほぼ毎場所、自ら土俵際で撮影している。にほんブログ村 相撲・大相撲カテゴリでランキング1位。

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