大相撲

記録でみた横綱対関脇の優勝決定戦

さる一月場所の優勝は横綱照ノ富士対関脇琴ノ若の
優勝決定戦で行われた。照ノ富士が優勝して幕を閉
じた。横綱と関脇二人だけで優勝が争われたケース
は14回目であった。優勝決定戦が始まったのは昭和
22年年6月からである。約5年半に1回横綱対関脇
二人の優勝決定戦が実現していたことになる。

<照ノ富士と琴ノ若の優勝決定戦>

優勝決定戦はこれまで86回実現した。横綱対関脇二
人の優勝決定戦は16%である。最初の横綱対関脇二
人の優勝決定戦は昭和25年秋場所であった。横綱照
國と関脇吉葉山の間で行われた。照國が寄り倒しで
勝ち悲願の初優勝を達成した。横綱18場所目だった。

1年に横綱対関脇二人の優勝決定戦が2回行われた
ことがあった。平成11年であった。一月場所、横綱
3代目若乃花対関脇千代大海との間で行われた。七
月場所は横綱曙対関脇出島戦であった。このときは
いずれも下剋上で関脇が勝利している。

<千代大海>

ただし、14回ある横綱対関脇二人の優勝決定戦では
横綱の10勝4敗である。関脇琴ノ若が横綱照ノ富士
に勝つことは稀なことであったことがうかがえる。

一番わかせた下剋上は関脇千代の富士が横綱北の湖
を上手出し投げで破り初優勝をとげたときであった。
千代の富士はこのあと大関3場所で横綱に駆け上が
った。このときのみが14勝1敗の優勝決定戦であっ
た。ほかの横綱対関脇二人の優勝決定戦はすべて13
勝2敗であった。

<佐田の山>

驚異的であったのは4連覇中の大鵬を関脇佐田の山
が阻止した一番であった。昭和37年三月場所の優勝
決定戦であった。佐田の山は猛然と突っ張り、一気
に横綱大鵬を押し出した。佐田の山は場所後大関に
昇進した。14回の横綱対関脇二人の優勝決定戦では
関脇11人が場所後に大関になっている。ほかの3人
も2場所後大関に上がっている。

次の横綱対関脇二人の優勝決定戦はいつどういうカ
タチで行われるのだろうか。歴史の歯車は静かに回
っている。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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