大相撲

昭和2~7年までの初日千秋楽の曜日

大正が12月25日で終わると即日昭和になった。
したがって大相撲は昭和2年から始まること
になる。東西合併の最初の場所は昭和ととも
に始まった。大阪からは横綱宮城山など6人
が幕内に加わった。それとともに西日本でも
本場所が開催されるようになった。一月、三月、
五月までは隔月開催であった。現代と異なる
点は15日制ではなく、11日制であることだ。
また、東京場所と地方場所を別番付にした。
昭和2年は初日、千秋楽の曜日はまちまちで
あった。

<宮城山のブロマイド>

昭和3年にラジオ中継がスタートした。ラジ
オ中継は2つの面で変化をもたらした。1つ
は仕切り制限時間が設けられたことである。
幕内10分、十両7分、幕下5分定められた。
もう1つは仕切り線が設置されたことである。
60センチ間隔だった。昭和3年から千秋楽
日曜の傾向が目立ってきた。

東京場所と地方場所をそれぞれ別に番付編成
をしていたが、無理が出てきた。汐ヶ浜は
東京番付で幕下、地方場所番付で幕内だった。
昭和3年10月場所は五月の東京場所でおこ
なうことにした。昭和4年春場所の番付は
直近3場所の成績をもとに編成することに
した。なお、昭和4年から東京場所と地方
場所を合わせた成績で番付を編成するように
なった。

昭和4年から6年は東京場所で日曜千秋楽が
続いた。地方場所は月曜千秋楽が目立って
いる。

昭和7年1月6日大相撲をゆるがす大事件が
勃発した。幕内西方の全力士20人と十両の
出羽系11人が、品川大井町の中華料理店春秋
園に集結した。目的は大相撲の近代化へ向け、
力士生活の安定化、大相撲の大衆化、協会の
制度改善である。中心人物天竜がまとめ、
協会に要求決議書10ヶ条を訴えたのである。
世にいう春秋園事件である。

<髷を切った天竜のブロマイド>

協会は1月7日に回答。だが検討する、考慮
するが目立ち、具体性に欠けた。茶屋や年寄
制度など絶対のめない項目があった。また
協会は財政上赤字であり、利息の支払いも
ままならなかった。誠意なき協会の回答に
出羽系の力士たちは、1月9日脱退状を協会
に提出。協会も除名破門で応じた。

1月10日出羽系中心の力士は大日本新興力士
団として旗揚げすることに決定した。武蔵山
はひそかに春秋園を脱出した。1月25日武蔵
山が出羽海部屋に帰参した。3日前に本場所
開催を決定していた協会は喜んだ。しかし、
誠意なき回答の協会に利用されるとふんだ
東方力士9人と十両力士8人が、革新力士団
として脱退した。十両以上で残ったのはわず
か15力士であった。

<両国国技館の絵ハガキ>

昭和7年春場所は2月興行となった。十両
から数人幕内に繰り上げたが、人数の少なさ
は否めず、系統別総あたりで8日間興行と
なった。3月場所は10日間興行であった。
混乱は1年間続いた。新興力士団と革新力士
団の興行は最初こそうまくいったが、最終的
にはいきづまり、脱退組のうち武蔵山を含め、
鏡岩・朝潮・出羽ヶ嶽ら22人が最終的に協会
に復帰する結末を迎えた。

昭和2年から7年までの24場所中初日木曜、
千秋楽が日曜になったのは11場所であった。
千秋楽だけを見ると日曜になったのは12場所
である。初日金曜、千秋楽月曜が6場所ある。
ほかに初日土曜・日曜が各1場所、千秋楽
土曜が1場所ある。場所は翌年から年2場所
へと戻っていった。

明日の天気が心配です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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