昭和35年、時代は栃若から大鵬へと移って
いった。三月場所は栃錦、若乃花が千秋楽
全勝決戦という大正15年優勝制度始まって
以来初のケースとなった。これが最後の見せ
場となった。若乃花が初の全勝優勝を飾った。
栃錦は翌場所初日、2日目と連敗するとあっ
さり引退した。この年若乃花は2場所休場が
あり、一月場所新入幕の大鵬が66勝24敗で
年間最多勝を獲得した。
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昭和36年は大鵬が連続優勝で横綱昇進を決め
た年だった。柏戸は抱き合わせで横綱となっ
た。新横綱の十一月場所、大鵬と柏戸は2敗
同士で14日目に対戦した。大鵬が勝って4回
目の優勝となった。同時にこの一番が年間
最多勝を決める一番となった。この年は大鵬
が71勝19敗で手中にした。柏戸は1勝及ばず、
70勝となった。
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昭和37年、柏戸は低迷していた66勝24敗で
あった。11勝4敗が4場所連続あった。のち
に北の富士が11勝4場所続けただけでイレ
ブン横綱と呼ばれたが、11勝は柏戸のほうが
多い。大関に昇進した栃光も66勝であった。
大鵬は4回の優勝を含め、77勝13敗と快調で
あった。次点は新しい勢力佐田の山で68勝
22敗であった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/佐田の山-e1629514342731.jpg)
昭和38年、大鵬は前年を含め6連覇を達成
していた。大鵬の優勝は11回に達していた。
これは、師匠の二所ノ関が攻撃相撲は破綻が
つきもということで大鵬に守りの相撲を取ら
せたことが影響している。攻撃相撲の柏戸の
優勝は1回であった。この年柏戸は4場所
連続休場でかなり追い詰められていた。再起
をかけて出場した九月場所、柏戸は大鵬と
千秋楽全勝決戦をして涙の全勝優勝を成し
遂げた。年間最多勝は81勝9敗で大鵬、次点
は学生相撲出身の豊山で65勝25敗であった。
大鵬の黄金時代であった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/大鵬!.jpg)
昭和39年オリンピックの年、大鵬は初めて
休場した。横綱17場所目であった。それでも
休場がありながら69勝11敗10休で年間最多勝
力士となった。大鵬に休場があっても誰も
超えることができないということは、大鵬と
ほかの力士にかなり差があることを物語って
いた。次点は大関佐田の山の63勝24敗3休で
あった。大鵬は5年連続年間最多勝力士と
なった。
暑い中の睡眠、2度目をさましました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。