大相撲

大関の3場所連続の成績 昭和20、30年代

2019年2月8日

15日制が定着した昭和24年夏場所以降大関に
昇進した3場所連続の成績をみていこう。
大関でいうと三根山以降になる。なお、大関
の降格が3場所連続負け越しになったのは、
昭和33年からである。大関の代でいうと松登
が途中から適用になっている。三根山、大内
山は2場所連続負け越しで大関を降格して
いるが、松登、若羽黒は3場所連続負け越し
で降格した。

昭和20、30年代の大関の3場所連続成績の
回数は以下である。
30勝以上…大関として合格
23勝~29勝…勝利数が(負け+休場数)より
多い
22勝以下…勝利数より(負け+休場が多い)
が多い
昭和大関20.30A
この当時、9勝6敗の大関を「クンロク大関」
といって揶揄されたものである。一月場所の
高安・豪栄道は「クンロク大関」であった
わけである。とりわけ大関直前13勝をあげた
松登は大関昇進後、ついに1度も10勝以上の
成績をあげられなかった。
プロマイド 松登
<松登のブロマイド>

内がけ名人琴ヶ濱は大関昇進直前12勝-11勝
-10勝ー11勝-13勝で文句なしに大関に昇進
した。ところが昇進後は、2場所連続負け
越しが4度もある。4度目で引退した。栃光
は、新大関から3場所連続30勝以上がを5回
連続達成している。

豊山は学生出身だが、期待の星だった。十両
で15戦全勝、新入幕で13勝をあげ、敢闘賞を
受賞している。大関直前の3場所は12勝-
12勝-13勝と数字だけみると横綱昇進と見間
違うほどである。13勝のときは大鵬と千秋楽
まで優勝を争ったほどである。大鵬に対抗
していくのは豊山という見方があったほどで
ある。
豊山
<豊山>

その豊山が昭和38年三月場所の新大関のとき、
千秋楽7勝7敗で大鵬と対戦して敗れて負け
越した。このとき豊山が未完の大器で終わる
ことは、決まっていたのかもしれない。つい
に豊山は優勝がなく、横綱になれなかった。

豊山は3場所30勝以上を7回連続達成した。
この時点では最高記録であった。だが、それ
以降3年余り3場所30勝以上を超えることは
二度となかった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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