大相撲

大関誕生の間隔2

引き続き昭和戦前の大関誕生のあき間隔をみていこ
う。

双葉山・鏡岩から2場所あけて前田山が大関に昇進
した。前田山は小結からの大関であった。前田山が
張り手旋風で横綱双葉山・大関羽黒山の強豪を撃破
し、殺気あふれる相撲を取ったのは、大関5場所目
であった。双葉山・羽黒山は14勝1敗だが、ともに
前田山に敗れている。

<前田山のブロマイド>

昭和14年から東西制に戻っている。双葉山の弟弟子
羽黒山は2場所あいだをあけて大関になった。羽黒
山は各段1場所で突破というスピード出世記録の持
ち主である。双葉山が現役でいる間は陰に隠れるこ
とが多かった。

1場所あけて安藝ノ海・五ツ嶋が大関として登場し
た。安藝ノ海は双葉山の連勝を止めたことで名をな
した力士である。双葉山に勝った男が関脇以下のま
まではと奮起した結果だった。五ツ嶋はわずか大関
2場所で降格している。

さらに1場所あけて照國が大関に昇進した。双葉山
同様2場所で横綱に昇進している。年6場所制では
大関在位3場所による横綱昇進が最高である。

<名寄岩のブロマイド>

1場所あけて名寄岩が大関になった。双葉山・羽黒
山とともに立浪三羽烏と呼ばれた。名寄岩は大関で
11戦全敗を記録している。大関降格後は涙の敢闘賞
を受賞している。

昭和戦前最後の大関は佐賀ノ花である。名寄岩から
3場所あけて昇進した。引退後大鵬を育てた。自分
や師匠の玉錦のような攻撃相撲は破綻がおきるので
大鵬に守りの相撲を身につけさせた。

<佐賀ノ花のブロマイド>

昭和戦前は18年間で16人の大関が誕生した。年4場
所から2場所の時代で49場所あった(昭和19年は3
場所)。最もあいたのは豊國から玉錦までの10場所
であった。続くのが玉錦から武蔵山までの5場所あ
きであった。あとは4場所あき以下である。昭和戦
前は3.1場所に大関1人誕生した時代であった。

(この項目続く)

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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