大相撲

横綱の対大関戦の成績3

常ノ花は大関8場所勤めた後横綱に昇進した。
大正13年夏場所が横綱初陣である。昭和2年
の東西合併にともなって昭和2年から昭和
7年まで年4場所となった。それだけに、
大関との対戦数は増加した。それでも対戦
した大関は3人しかいない。大関太刀光とは
1勝1分である。大関能代潟には5勝5敗、
豊國には4勝5敗である。常ノ花が優勝10回
の強豪というイメージであったが、横綱の対
大関戦は10勝10敗1分の互角の成績であった。

<常ノ花のブロマイド>

宮城山は東西合併にともなって大阪から来た
横綱である。横綱だけに地位は動かせなかっ
たが、実力は小結程度という見方があった。
横綱宮城山の対大関戦は東西合併後の昭和
2年からである。横綱宮城山が対戦した大関
は2人。大関大ノ里には8勝6敗である。
大関常陸岩には3勝7敗とけっこう負け越し
ている。常ノ花もそうだが、横綱に昇進する
大関との対戦にはついにめぐり合わなかった。
横綱の対大関戦は11勝13敗であった。

<宮城山のブロマイド>

玉錦は第一人者でありながら、横綱になる
のが遅れた力士だった。昭和8年春場所から
横綱を務めた。取組は系統別に入っていた。
それだけに5人の大関と対戦している。大関
清水川に6勝2敗(1不戦敗含む)、大関
武蔵山に3勝2敗、大関男女ノ川に4勝、
大関双葉山に1敗、大関前田山に1勝の成績
を残している。トータル14勝5敗(1不戦敗
含む)と大関を圧倒した。

なお、ニ所ノ関(元2代目海山)部屋の玉錦
は粂川(2代目鬼竜山)部屋の鏡岩との対戦
はない。そのいきさつはこうだ。昭和6年
6月玉錦の師匠元2代目海山の二所ノ関が死去
した。そのため二所ノ関部屋の力士は粂川
部屋に身を寄せることになった。昭和6年
10月場所から昭和9年まで粂川部屋所属で
あった。そうした事情から玉錦対鏡岩は組ま
れることはなかった。

<玉錦のブロマイド>

武蔵山は、休場の多い横綱で、皆勤はたった
1場所だった。それだけに大関戦はわずか
2番しかない。鏡岩に1勝、前田山に1敗と
2番で終わっている。春秋園事件で脱退した
男女ノ川は復帰後、どんどん番付をあげ、
ついに横綱にまでのぼりつめた。双葉山が
台頭する以前のことである。大関戦は鏡岩に
4勝1敗と勝ち越したが、ほかの大関清水川、
双葉山、羽黒山、照国には勝てなかった。
大関戦は4勝7敗の成績で終わっている。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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