玉の海は横綱になってからの四股名でそれ以前は玉乃島だった。昭
和40年一月場所から部屋別総あたり制が始まった。それ以前は系統
別総あたり制で本家・分家と分家同士の対戦はなかった。二所ノ関
(元佐賀ノ花)部屋から独立したのが片男波(元玉乃海)部屋であ
った。昭和40年一月場所横綱大鵬(二所ノ関部屋)対小結玉乃島
(片男波部屋)戦が初日に実現した。この一番、玉乃島はなんと内
掛けで大鵬を倒してしまった。館内は思わぬ展開に大騒ぎとなった。
玉乃島は北の富士に次いで大関に昇進した。大関8場所目から12勝
ー12勝ー13勝優勝の好成績をあげた。横綱審議委員会は審議したが、
賛成は2人であった。規定は3分の2が必要だった。協会も強い意
志はなかった。玉乃島の横綱は結局その10場所後に実現した。13勝
優勝ー10勝ー13勝だった。

横綱に昇進したものの同日横綱に昇進した北の富士に優勝は先んじ
られた。横綱3場所目に9勝6敗で「こんな横綱あるか」とまで言
われた。玉の海の相撲が変わったのはそれからである。抜群の安定
感、めったに負けなかった。腰で取る相撲は双葉山と比較する楽し
みが出てきた。昭和46年九月場所、貴ノ花の外掛けに腰がくずれな
がら、もう一方の腰で残してかかえ出した。二枚腰が出た瞬間だっ
た。
玉の海は虫垂炎を患っていた。それも早く治療していれば悲劇は訪
れなかったろうに、と悔やまれる。玉の海は持ち前の責任感から切
らずに注射で散らしていた。それが昭和46年五月場所途中から始ま
っていた。さらに夏の巡業、九月の本場所と長期に渡っていた。

玉の海が入院したのは10月4日であり、手術は6日になった。虫垂
炎の手術だから大事にはいたらないと誰しもそのときは思った。だ
が、それから5日後の10月11日、様態は急変した。思いがけず右肺
動脈幹に発生した血栓症が原因で横綱玉の海は帰らぬ人となった。
青年横綱の目は永遠に閉じられた。
玉の海は金星をほとんど与えなかった。横綱時代の平幕戦は58勝提
供3敗であった。金星配給率5%である。7番平幕戦があったら0.3
個である。7場所連続金星0記録がある。福の花が2個獲得してい
る。