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高砂の系統7

引き続き3代高砂(元2代朝潮)の下で分家
独立した部屋をみていこう。

昭和4年3月場所で引退した阿久津川(最高
位前頭筆頭)が引退し、佐渡ヶ嶽部屋をおこ
した。現役のときから内弟子として育てた
力士に男女ノ川がいたが、なかなか移籍でき
なかった。男女ノ川は昭和4年夏場所から
朝潮と名のった。

<阿久津川のブロマイド>

その朝潮は昭和7年1月の春秋園事件で脱退
した。3代高砂は激怒し、朝潮の名を剥奪
した。昭和8年春場所、男女ノ川は別席で
復帰した。その場所佐渡ヶ嶽部屋所属として
優勝している。その後佐渡ヶ嶽(元阿久津川)
は男女ノ川を横綱にまで育て、理事を務めた。
昭和29年1月協会を退職した。56歳であった。

昭和6年、元小結若湊が独立し、 富士ヶ根
部屋を創設した。富士ヶ嶽を育てるも、昭和
25年11月、58歳で死去した。部屋は弟子の
若港(前名富士ヶ嶽)が二枚鑑札で継いだ。
弟子に東富士がおり、大関まで育てた。
昭和22年6月で 富士ヶ根部屋を閉鎖し、弟子
とともに4代高砂(前田山、二枚鑑札)部屋
に移籍した。自身はその後再び部屋をもつも
すぐ消滅。時津風(元双葉山)部屋に転属
して定年まで務めた。

<若港、富士ヶ嶽時代のブロマイド>

昭和14年夏場所引退した関脇高登は大山部屋
を創設した。東京空襲で部屋を焼失し、妻子
と弟子2人を失いながら、それを乗り越えて
大関松登を育てた。昭和36年12月、新しく
部屋を建てたが、翌年1月心臓麻痺で急逝
した。部屋開きからわずか2週間後のことで
あった。53歳だった。

<高登のブロマイド>

元松登の振分親方が亡くなられた先代のあと、
部屋を継いで大山となった。少ない力士の
なかから大飛が育った。昭和61年4月に大山
(元松登)が死去したため、元大飛の山響が
大山を襲名して部屋を継承した。しかし、
土俵のない部屋は認められなくなっており、
部屋運営の困難から5月に閉鎖した。弟子は
5代高砂(元横綱朝潮)に託された。大山
(元大飛)は東関(元高見山)に移籍し、
八角(元北勝海)部屋へと再移籍した。

<松登のブロマイド>
<大山親方(元大飛)>

高砂が交代することになった。昭和16年
12月、3代高砂(元2代朝潮)は62歳で隠居
し、翌年1月前田山が現役と親方の二枚鑑札
の形で4代高砂となってスタートした。

(この項目続く)

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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