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横綱10大史2 制度の継続

江戸時代、横綱が免許された力士は以下で
ある。谷風・小野川から阿武松まで約38年
3ヶ月という異例とも思える長期期間がある。
人生でいえば半分以上を折り返している長さ
である。ほかは長くても稲妻から不知火(諾)
までの約10年2ヶ月、秀の山から雲竜までの
約16年間である。谷風・小野川から阿武松
までの長期横綱免許空白は何を意味している
のか。
谷風  1789年(寛政元年)11月
小野川 1789年(寛政元年)11月
阿武松 1828年(文政11年)2月
稲妻 1830年(文政13年)9月
不知火(諾)1840年(天保11年)11月
秀の山 1845年(弘化2年)9月
雲竜 1861年(文久元年)9月
不知火(光)1863年(文久3年)10月
陣幕 1867年(慶応3年)
1月五条家10月吉田司家
本
<新田一郎著「相撲の歴史」
(山川出版社刊)

これについて新たな考えを示したのが、新田
一郎氏である。新田氏の著書「相撲の歴史」
(山川出版社刊)を平成6年に目にしたとき、
筆者は衝撃を受けた。新田氏は「相撲の歴史」
でこう著している。
谷風・小野川に横綱免許があたえられてから、
三〇年以上にわたって、吉田司家は横綱を
免許していない。この間には、強豪雷電為右
衛門の活躍期間がふくまれており、しばしば
「史上最強力士」とまで称される雷電が、
なぜ、横綱を免許されなかったのか、という
問題は、相撲史マニアのかっこうの問題と
なりつづけている。
とした上で5つの理由をあげ検証している。
講談ネタや根拠・整合性なし、論拠なしは
退けられている。ただ、横綱は上覧相撲に
際して免許されるのに、雷電はそうした機会
にめぐまれなかった。という説に対し、谷風
死去、小野川引退で横綱力士不在となった
後の享和二(一八〇二)年に上覧相撲があり、
雷電も出場している、として退けている。
大関・雷電
<雷電>

その上で、こう述べている。
ところで、これらの説はいずれも、「横綱
という制度がありながら、それにふさわしい
雷電がなぜ免許されなかったのか」という
問題設定に立って展開されている。だが
じつは、第一に問題とされなければならない
のは、そもそも「横綱」は、谷風・小野川の
免許の時点で、恒久的な制度として構想され
ていたのか、という点なのである。
要するに横綱の土俵入りは、谷風、小野川
限りのものであって、後世に制度として継続
させようという考えはなかった、というので
ある。
それでは、なぜ横綱を復活し、後世まで続く
制度としたのか。それは吉田司家と相撲の
家元五条家の争いにある。横綱の土俵入りは
吉田司家のアイディアだが、五条家が独自に
横綱の免許を交付したのである。1823(文政
6)年、五条家が柏戸利助と玉垣額之に横綱
の免許を交付したのである。五条家に対する
対抗措置で、吉田司家が阿武松に横綱を免許
したわけである。こうして横綱は制度化され
ていったわけである。なお、今日吉田司家の
免許を受けた力士のみを横綱と制定している。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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