大相撲

戦後最大の功績者大鵬

2014年11月7日

白鵬が大鵬の32回最高優勝回数に迫ってきた。早ければ
十一月場所で実現する。大鵬の優勝32回は今後破れないと
思っていただけに時の流れを感じる。白鵬に迫られた
大鵬はどんな横綱だったのか。
白鵬倶楽部
<白鵬>
 
大鵬といえば、新入幕のとき初日から勝ちまくって11連勝
し、日本中からいちやく注目される存在となった。今と
違って十両のテレビ中継がない時代だけに彗星のように
出現した印象であった。

英雄の条件を元阪神の村山投手はこういっている。「観客
が、ここぞと期待するときにその通りの結果を出す人間で
ある」まさに大鵬は英雄であった。入幕した年に優勝
するやあっというまに大関、横綱に昇進してしまった。
大鵬W1
<大鵬>
 
当時最年少大関・横綱でまだ細く、どこまで成長をし続け
るのか未知の英雄であった。大鵬が登場するころは女湯が
ガラガラになると言われた。(当時はけっこう銭湯が利用
されていた)

「大鵬には型がない」とか、有利な体制なっても攻めない
相撲を「負けまいと退嬰的になるのが負けにつながる」とか
「大鵬の取り口は手本にしにくい」という批判があった。
技術的には柔軟な体質で差して手がよく返り、引きつけて
の寄り、すくい投げを得意技にしていた。
t大鵬W2
<大鵬>
 
連覇を続ける大鵬はまさに王者というイメージであった。
休場後はよく優勝し、晩年は不死鳥と呼ばれた。32回優勝、
6連覇2度、48連勝+α、横綱勝利数など6場所時代の
申し子といわれるほど偉大な功績を残した存在であった。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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