今年納めの十一月場所がまもなく始まる。十一月場所は
通称九州場所と呼ばれる。通常、ほかの場所を地名で
いうとき東京3場所とか大阪場所、名古屋場所という。
十一月場所だけ福岡場所と呼ばず、なぜ広域な「九州」
なのだろうか。九州場所といっても鹿児島や宮崎など
福岡からの遠隔地は手軽に本場所を観戦できるわけでは
ない。むしろ山口のほうが相撲観戦に来やすい。知られ
ざる九州の本場所を紹介してみる。
九州で初めて本場所が開催されたのは1930(昭和5)年の
10月である。1927(昭和2)年東京と大阪の大相撲が合併
して以来東京-西日本-東京-西日本で本場所が開かれる
ようになった。これは1932(昭和7)年まで続いた。
場所は福岡市須崎裏仮設国技館で晴天11日興行であった。
収容人員は1万4千人という大規模なものであった。この
場所は9勝2敗の大関玉錦が優勝した。
時は流れ戦後年3場所、4場所と場所が増えつつあるなか、
九州は大横綱双葉山(大分)や梅ヶ谷(福岡)を生み、
熊本に相撲の家元・司家で横綱免許を発行していた吉田
司家がある相撲どころであった。だから、九州本場所
誘致に熱心であり、相撲どころ九州に応えるべきと福岡の
実業家は相撲協会に迫った。
経理担当の武蔵川(元出羽ノ花、後理事長)は経費が
力士の給与を含め6千万かかると反対した。当時はまだ
1万円札が発行されていなく、大卒銀行員の初任給が1万
2700円くらいの時代の話である。「赤字が出たら面倒を
みる」という地元有力者の発言で難航しした末1957(昭和
32)年ようやく準場所から本場所に昇格した。通称九州
場所は福岡一箇所ではなく、相撲どころ九州をPRした
たまものであった。
32)年ようやく準場所から本場所に昇格した。通称九州
場所は福岡一箇所ではなく、相撲どころ九州をPRした
たまものであった。
九州場所の会場は1万人にくらい収容できる福岡スポーツ
センターで行われた。と同時にこの興行は福岡スポーツ
センターの買い興行であった。後の1970(昭和45)年、
連日健闘し、観客をわかせた7勝8敗の貴ノ花が福岡
スポーツセンターから表彰されたのは九州場所が福岡
スポーツセンターの主催であったからだ。
しかし、福岡スポーツセンターが主催であることが、
相撲協会と袂を分かつことになる。協会は福岡スポーツ
センター主催ではたまらないので改善を申し入れた。
七月場所は協会と中日新聞社との共催でおこなっている。
協会はせめて七月場所のように共催にできないかと福岡
スポーツセンターに提案した。しかし、福岡スポーツ
センターはこれを断った。ここに至って事態は決裂し、
協会は会場を移して自主興行で開催することにした。
1974(昭和49)年から十一月場所は九電記念体育館に
会場を移して開催された。九電記念体育館はプロレスの
興行で使用されていたので名前は知っていた。しかし、
収容人員は6059人とこじんまりとした会場である。協会は
それでも自主興行の道を選んだのである。
九電記念体育館の使用は1980(昭和55)年まで7年間
続いた。1981(昭和56)年10月に福岡国際センターが
開業するとともに会場を移し、現在に至っている。かつて
の福岡スポーツセンターは1987(昭和62)年老朽化で
解体された。明日から始まる十一月場所はかつての相撲
どころが蘇る場所になるかもしれない。