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すれ違いの優勝争い2

昭和7年春秋園事件が勃発し、力士の大量
離脱がおきた。残った幕内力士では足りなく、
十両から繰り上げ入幕した。だが、取組は
東西制では無理があったため、系統別総あた
り制となった。これによって優勝者と次点
力士が同じ方屋で対戦がなかったケースが
消滅した。

ただ、番付差による対戦なしはそのままだっ
た。系統別総あたり制は昭和14年夏場所まで
続いたが、4例出ている。昭和14年夏場所、
優勝双葉山は15勝、次点松ノ里は12勝3敗と
3差がついていたので逆転はありえなかった。

<鏡岩のブロマイド>

昭和10年春場所、優勝玉錦と次点鏡岩が同系
統ということで対戦はありえなかった。二所
ノ関と二枚鑑札の玉錦と粂川(元鬼竜山)
部屋の鏡岩が同系統とはどういうことか。
玉錦の師匠2代目海山が亡くなったとき、
二所ノ関部屋の力士は粂川部屋に身を寄せて
いた時期があったためである。

双葉山の連勝がストップした昭和14年春場所、
優勝した力士は出羽湊であった。次点が同じ
出羽海部屋の肥州山であった。ともに小結戦
までで、横綱・大関戦はなかった。翌場所
上位に番付をあげた出羽湊は5勝10敗、肥州
山は3勝12敗とともに惨敗した。出羽湊優勝
の裏には八百長があったことがかなり経って
から判明している。

<出羽湊のブロマイド>

昭和15年から再び東西制に戻った。出羽系の
力士が幕内の半分近くを占めたことが大きい。
その反面ある時期双葉山対照國が実現しな
かった。双葉山対玉ノ海は永遠に失われた。

羽黒山は双葉山の弟弟子である。昭和15年
春場所には大関に出世していた。双葉山時代
の陰に最も隠れた存在だった。同部屋だから
直接対戦することはもちろんなかった。戦前
は2回しか優勝がなかった。羽黒山が台頭
したのは戦後であった。

<羽黒山のブロマイド>

その最初の場所昭和20年秋場所で10戦全勝で
優勝した。その場所期待の新入幕千代ノ山が
同じく10戦全勝の成績をあげた。対戦相手は
前頭3枚目以下だけだが、これが全勝で優勝
できなかった唯一の例となった。

めっきり冷え込んだ朝でした。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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