大相撲

東西制から系統別へ 歴史的大もめ

2023年2月16日

東西制は明治42年夏場所、国技館開設とともに始ま
った。もっともそれ以前も取組は東対西であった。
それを東西の優劣を決める団体戦にしたわけである。
勝ったほうが翌場所東にまわる。現代の部屋別総あ
たり制を見慣れている相撲ファンからすると奇妙に
思えるかもしれない。

<両国国技館の絵葉書>

問題点がいくつかある。
1.横綱の1勝と幕尻の1勝が同じ扱いになる
2.片方が圧勝すると東は東だけで、西は西だけで
番付を編成するのだから無理が出る
3.番付のバランス上、片屋を変更することがあり、
一定しないケースが出てくる

3は一例として横綱2代目梅ヶ谷と横綱太刀山は同
じ方屋であった。ところが反対側の横綱常陸山が引
退すると片方が横綱2人、反対側が横綱0となって
しまった。そのため、2場所後2代目梅ヶ谷は常陸
山がいたほうの方屋に移った。もっとも2代目梅ヶ
谷は休場がちで太刀山戦は実現しなかった。

<梅ヶ谷のブロマイド>

昭和7年1月春秋園事件が起こり、大量の力士脱退
につながった。やむなく取組は系統別に切りかわっ
た。やがて復帰力士が出てき、出羽海部屋の力士が
幕内の半数近くを占めてくると、再び東西制に戻った。
昭和15年春場所のことであった。

戦後、日本の古いものはだめという風潮のなかで相
撲人気は低迷した。相撲協会は記者クラブとともに
知恵を出し合い、この窮地を脱したかった。そのな
かに優勝決定戦、三賞、そして系統別総あたり制が
あった。系統別総あたり制は好取組を出すのが狙い
だった。

<緑嶋のブロマイド>

ところが、相撲協会一部に猛反対が出た。反対した
のは立浪(元緑嶋)取締、出羽海(両国前名国岩)
相談役でもめにもめた。ところが改革派の藤島(元
常ノ花)、伊勢ヶ濱(元清瀬川)、力士会が賛成し、
やっと承諾となった。こうして系統別総あたりが復
活するとともに、東西制は歴史のなかに消えていっ
た。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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