大相撲

横綱の代からみた国技館 2

昭和は東京大相撲と大阪大相撲の合併場所として始
まった。昭和2年から7年まで年4場所で半分は名
古屋を含み西日本で開催された。常ノ花は横綱とし
て大正13年夏場所から旧両国国技館の土俵にあがっ
た。大阪横綱の宮城山は東西合併後の昭和2年春場
所から旧両国国技館に入った。

<旧両国国技館の絵葉書>

昭和8年以降は年2場所制になった。旧両国国技館
はその後横綱玉錦・武蔵山・男女ノ川が使用してい
る。

その後双葉山・羽黒山・安藝ノ海・照國が旧両国国
技館の土俵にあがった。それだけではない。戦時中
の昭和19年、国技館は接収され、風船爆弾工場に使
われた。そのため大相撲は後楽園球場で開催された。
4横綱はここで相撲を取っている。

昭和20年夏場所は空襲の中で行われた。旧両国国技
館は天井がなく、内部は焼失していた。相撲部屋も
燃えていた。この場所は非公開となった。

<双葉山のブロマイド>

そんな状態で昭和20年秋場所が開催された。双葉山
はこの場所で引退した。昭和21年、旧両国国技館は
占領軍に接収され、メモリアルホールに改称した。
そしてこれが旧両国国技館最後の場所になった。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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