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相撲史を真っ2つにする

長い日本の歴史はそれぞれ時代区分がされている。それ
では日本史を真っ2つにするとするとそれはどこになるか。
人それぞれ見方は様々、意見は異なるのを承知でいうと
江戸末期の黒船来航以前と以降である。
世界の国々のほとんどは陸続きである。そのため絶えず
異民族の襲撃に備えなければならなかった。そのため
城塞という町を取り囲む防壁があった。しかし、日本は
四方を海に囲まれ、海が天然の防壁になっていた。
鎌倉時代、元寇が攻め切れなかったのも海にあったため
であり、特に馬は生き物であり、船で運ぶ難しさがあった。
ところが黒船は海としての防壁を水路に変えてしまった。
テムズ川と日本周辺の海はつながっている。世界のどこ
からでも大砲を積んだ蒸気船が来れる。江戸湾にはい
れば大砲は江戸城を射程距離に入ることができる。海の
意味をまるで変えてしまったということで黒船来航以前と
以降が日本史の分岐点であった。
それでは相撲史はどうか。横綱が誕生したときか。明治に
なって相撲無用論・禁止論が出たなかで生き残ったことか。
優勝制度が始まったときか。ラジオ放送が始まって相撲が
大衆のもになったときか。他のスポーツに先がけ勝負
判定にビデオを導入したときか。
筆者は相撲史を真っ2つにしたのは明治末の国技館開設
だと思う。それまでは掛け小屋であった。当然のことながら
晴天興行であった。そのためいつ場所が終わるかまるで
わからない。下手をしたら天候回復の見通しが立たず、途中
で中止になることさえあった。今も土俵には徳俵が4箇所ある
が、あれは土俵にたまった雨水を掃きだすためにつくられた
ものである。
常設国技館
<旧両国国技館>
 
掛け小屋の問題は天候だレスない。場所が始まるたびに
組み立て、終われば解体しなければならなかった。また、
見物客は3500人程度だったという。後楽園ホールのプロ
レス・ボクシング興行は2000人である。明治の国技館は
1万3000人である。消防法がなかった当時は詰め込んで
1万7000から1万8000人程入った。
なお、国技館開設の目的は欧米の貴賓に見ていただくのに
お粗末な相撲場というわけにいかなかったからである。
これを機会に力士の羽織袴が義務化され、今まで千秋楽は
休場していた幕内が出場するようになり、東西対抗の
団体戦がスタートしたのである。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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