大相撲

出羽海の系統13

2015年6月22日

部屋の年寄、関取の総意で新出羽海となった元出羽ノ花は
まず、斜陽の名門の建て直しに取り組まなければならな
かった。斜陽の原因は黙っていても弟子が集まるという
名門意識にあると新出羽海は分析。その間他の部屋は必死
で弟子集めに奔走していたというのである。協会運営と
師匠としての弟子育成の両立に関してはやりとげるしか
ないという決意をかみしめた。1960(昭和35)年十一月
場所時点で佐田の山はまだ十両であった。
海乃山
<海乃山のブロマイド>
 
BS放送の名勝負列伝で曲者海乃山がけたぐりで王者
大鵬をたおしたシーンを見た方がおられると思う。海乃山
は出羽海部屋の力士だが、ずっとそうだったわけではない。
最初は小野川(元錦華山)部屋であった。小野川部屋は
大阪から来た部屋だが、出羽一門に入っていた。その
系統は下図である。
小野川

小野川部屋は閉鎖と再開、復興と閉鎖を経て1965(昭和40)
年、出羽海部屋に併合された。実は小野川部屋の力士には
海乃山以前に信夫山がいた。双差し名人で技能派だった。
引退は1960(昭和35)年九月場所だった。年寄山響の
1961(昭和36)年独立を申し出るも脚下された。小野川は
出羽一門であるが、ルーツは大阪相撲で分家独立を許さず
という不文律が適用されるはずがないのだが、認められ
なかった。
信夫山 
<信夫山のメンコ>
 
元出羽ノ花が出羽海を襲名したとき、分家独立を許さず
という不文律に関しては次のような趣旨を語っている。
大きな幹がなければ枝も葉もりっぱに育たない。これは
先々代出羽海(元両国(前名国岩))のときみんなの総意
で決まった。これにこだわるつもりはないが、やはり
みんなが今まで通りでと言えばそうなる。つまり部屋の
方針は強制したものでなく、みんなの総意で決まる、と。

出羽海からの分家独立は相変わらず困難であった。だが
ある事件が独立への引金になった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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