大相撲

相撲史を真っ2つにする

2015年6月21日

長い日本の歴史はそれぞれ時代区分がされている。それ
では日本史を真っ2つにするとするとそれはどこになるか。
人それぞれ見方は様々、意見は異なるのを承知でいうと
江戸末期の黒船来航以前と以降である。

世界の国々のほとんどは陸続きである。そのため絶えず
異民族の襲撃に備えなければならなかった。そのため
城塞という町を取り囲む防壁があった。しかし、日本は
四方を海に囲まれ、海が天然の防壁になっていた。
鎌倉時代、元寇が攻め切れなかったのも海にあったため
であり、特に馬は生き物であり、船で運ぶ難しさがあった。

ところが黒船は海としての防壁を水路に変えてしまった。
テムズ川と日本周辺の海はつながっている。世界のどこ
からでも大砲を積んだ蒸気船が来れる。江戸湾にはい
れば大砲は江戸城を射程距離に入ることができる。海の
意味をまるで変えてしまったということで黒船来航以前と
以降が日本史の分岐点であった。

それでは相撲史はどうか。横綱が誕生したときか。明治に
なって相撲無用論・禁止論が出たなかで生き残ったことか。
優勝制度が始まったときか。ラジオ放送が始まって相撲が
大衆のもになったときか。他のスポーツに先がけ勝負
判定にビデオを導入したときか。

筆者は相撲史を真っ2つにしたのは明治末の国技館開設
だと思う。それまでは掛け小屋であった。当然のことながら
晴天興行であった。そのためいつ場所が終わるかまるで
わからない。下手をしたら天候回復の見通しが立たず、途中
で中止になることさえあった。今も土俵には徳俵が4箇所ある
が、あれは土俵にたまった雨水を掃きだすためにつくられた
ものである。
常設国技館
<旧両国国技館>
 
掛け小屋の問題は天候だレスない。場所が始まるたびに
組み立て、終われば解体しなければならなかった。また、
見物客は3500人程度だったという。後楽園ホールのプロ
レス・ボクシング興行は2000人である。明治の国技館は
1万3000人である。消防法がなかった当時は詰め込んで
1万7000から1万8000人程入った。

なお、国技館開設の目的は欧米の貴賓に見ていただくのに
お粗末な相撲場というわけにいかなかったからである。
これを機会に力士の羽織袴が義務化され、今まで千秋楽は
休場していた幕内が出場するようになり、東西対抗の
団体戦がスタートしたのである。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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