白鵬の騒動はすっきり止む気配はない。むしろ様々な
問題を浮き彫りにした。あらためてこの問題はあらゆる
角度から取り上げる予定だが、ここでは双葉山の土俵に
取り組む姿勢がいかに白鵬と異なるか記したい。
双葉山という力士はおよそ勝つために、奇襲や対戦相手の
裏をかくようなことはしなかった。幕内上位では横綱
玉錦をはじめ、大関武蔵山、男女ノ川、清水川に来る日も
来る日もはねかえされていた。あまりの連戦連敗に奇策を
進言する者もいたが、双葉山は「相手との実力差が以前
より縮まっているのを肌で感じています」と答えている。
この感覚はまともにぶつかる取り口でなくてはわからない。
そしていったん勝ちだすともう負けなかった。
玉錦 ●●●●●●○○○○
武蔵山 ●●●×●○○
男女ノ川●●●●●○○○○○○○○○○
清水川 ●●●○●○○○○
×は引き分け
双葉山にとって最大の強敵は横綱玉錦だったが、初勝利が
覇者交代の一番となった。1936(昭和11)年夏場所(5月)
関脇のときである。このとき双葉山は初優勝。玉錦はこれ
以降優勝することはなかった。
1月23日の「■初12日目 白鵬は偉大な双葉山に迫れる
か」において双葉山が求めたものは、相手から得られる
勝利でもなく、観客の賞讃でもなかったということを紹介
した。再び小坂秀二著がちんこ相撲-だれが現代の
双葉山か-いんなとりっぷ社刊より双葉山がいかに勝敗に
とらわれなかったというエピソードを紹介する。
かつて双葉山はこう語ったことがあった。「物言いが
ついたとき、土俵下におりて判定を待っているが、あの
ときの力士の姿は美しくて大好きだ」力士は、ただ全力を
つくして相撲を取ればよし、勝敗は他に任せてあえて
これを問わず、という双葉山の土俵哲学がよくあらわれて
いる言葉だ。こういう心境で土俵にあがっていたので、
双葉山の土俵態度は実に淡々としていた。
どこからいっても勝てない、だれがぶつかっても勝てない
という時代の双葉山に対しては、ありとあらゆる攻略法が
試みられたが、高ぶる様子もなければ、臆する気配もない。
無駄もなければすきもないというものであった。
白鵬は双葉山には遠く及ばない。