来たる七月場所、琴櫻は一人大関となる。これは大の里が横綱に昇
進したためである。一人大関が解消されるためには新大関が誕生す
るか元大関が2度目の大関昇進を達成するしかない。だから、七月
場所後はよほどのことがない限り、琴櫻の一人大関は続くことにな
る。

一人横綱はよく認識されているが、一人大関となると意外と知られ
ていない。一人大関はこれまでどのくらいあったのか。看板大関が
いた江戸時代を別にして、明治以降を調査してみた。それが以下で
ある。

明治29年3月、小錦に吉田司家から横綱を免許された。この時代、
横綱は番付上に存在したが、大関より上の地位という認識にはいた
っていなかった。端境期であった。大碇が大関から関脇に降格した
ため、大戸平が見かけ上大関一人になった。
なお大関は東西に2人いなくてはならない。そのため横綱に大関を
兼任するカタチで、番付上横綱大関と書かれた。兼任といっても横
綱と大関の両方のマネーがもらえるわけではない。1日横綱として
大関として2番取るわけでもない。実際は兼任できないわけである。

明治37年夏、常陸山、梅ヶ谷が同日横綱に昇進した。同時に大関が
不在になり、それが3場所続いた。常陸山、梅ヶ谷から実質上横綱
の地位化が始まった。先人の横綱大砲が張出にまわされている。横
綱を地位として明文化されたのは、明治42年2月のことである。
一人大関最長は貴景勝の通算4場所であることがわかる。戦後琴ヶ
濱が3場所連続一人大関を経験している。貴ノ花は2期に渡って一
人大関がある。千代の富士は一人大関を経験するも、自ら横綱に昇
進した結果、大関不在をつくっている。

一人大関が一人横綱ほどインパクトをもたないのは、短期間で解消
されているからである。大関が一人のときは、次の大関昇進は甘い
成績で上がる傾向がある。だから解消が早いとも言える。なお、平
成になってから一人大関の時代はない。令和、琴櫻の一人大関は果
たして何場所続くのか。