武蔵川理事長の後を受けて理事長に就任したのは元
栃錦の春日野であった。出羽一門による継続である。
それだけにすんなりとはいかなかった。立浪・伊勢
ヶ濱連合が元照國の伊勢ヶ濱を担ぎ出したのである。
これに元佐賀ノ花のニ所ノ関が賛同した。しかし、
同じニ所一門の花籠(元大ノ海)が春日野を支持し
て春日野が理事長になった。
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前理事長の武蔵川の権勢があまりに強く、春日野は
暫定政権とみられた節があった。いずれは娘婿であ
る元佐田の山の出羽海政権にもっていくことが狙い
だったと思えたほどであった。佐田の山は連続優勝
の後突然引退した。意外な引退に、武蔵川が帝王学
をみっちり学ばせるためではと囁かれたほどだった。
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春日野が就任とともに、打ち出したのが部屋別優勝
であった。部屋の勝率がいい部屋を表彰するという
ものであった。小さい部屋のなかには力士が2人し
かいなく、場合によっては優勝してしまう懸念があ
った。春日野は少人数の部屋は一門の部屋と合同成
績にしてはと答えた。
それでも問題はあった。
1.横綱の1勝と序ノ口の1勝が同じ1勝なのはお
かしい
2.体調が悪い者やケガをかかえている者は部屋の
優勝のために休めということになる
3.小さい部屋を一門の部屋との合同成績というが、
対戦があって星のつぶし合いになる
という問題をクリアできずに部屋別優勝は立ち消え
になった
春日野の最大の功績は新たな国技館の建設であった。
蔵前国技館は老朽していた。蔵前国技館は海軍の飛
行機組み立て工場で解体した払い下げの鉄骨の骨組
みと屋根と囲いはトタンぶきで突貫工事で建設され
た。こうして両国に国技館が帰ってくることになっ
た。今思うと蔵前は土地が広かった。駐車場が地上
にあったほどだった。今の両国国技館は2階が急階
段なのは土地の狭さによるものである。
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両国国技館建設は一大事業であった。「各金額が大
きくていったいいくらの単位なのかわかりにくかっ
た」さらに建設会社に値段をまけさせた。「わしら
は相手をまけさせるのが商売だからね」とも述べて
いる。両国国技館は昭和60年から使用された。土俵
が沈み、マス席がひっこめられるしかけであった。
春日野理事長はまだ任期はあったが、ライバル元若
乃花の二子山に禅譲した。理事長の任期は約13年2
カ月だった。