昭和戦前に引退した横綱の年寄率を見ていこう。
宮城山 年寄白玉→芝田山部屋 48歳死去
3代目西ノ海 年寄浅香山部屋 42歳死去
ともに病死で年寄としては短期間で終わっている。
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常ノ花は引退後藤島を襲名し、その15年弱後理事長
に就任した。さらに出羽海部屋を継承したが、国会
でお茶屋などの問題を追及された。そのため自殺未
遂をおこし相談役に退いた。自殺未遂から約3年半
後に死去した。64歳であった。
玉錦は二枚鑑札であった。これは現役と師匠を兼ね
る制度で現代は禁止されている。玉錦は現役亡くな
っている。注釈つきだが一応年寄ニ所ノ関として終
えている。
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武蔵山は横綱になったものの休場が多く、フル出場
は1場所だけだった。引退後は年寄出来山、不知火
となったが、途中で離職した。いくつかの事業失敗
後アパート経営で暮らした。
男女ノ川は年寄男女ノ川として一時協会にいた。し
かし、協会を離れると様々な職を転々とした。まさ
に転職人生だった。選挙にでたが2度落選している。
下足番になった横綱という本が出るほどだった。
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ここまで6人中4人が年寄を全うした。といっても
短命が多い。