MENU

理事長の任期2

元常ノ花の出羽海理事長の自殺未遂を受けて理事長
に就任した者が元双葉山の時津風であった。時津風
理事長がまず手をつけたのは、月給制であった。こ
れまで力士の待遇改善を求めて数々の事件がおこっ
た。生活の安定をはかった。それは力士だけでなく
行司、年寄、呼び出しなどにも及んだ。

<双葉山のブロマイド>

次に定年制を導入した。行司の定年は昭和35年1月
に実施された。なお、11月に出羽海相談役が急逝し
た。翌年1月、年寄、若者頭、世話人、呼び出し、
床山、事務員も実施された。

元双葉山の時津風理事長の最大の功績は部屋別総当
たり制だろう。NHK解説者の玉の海梅吉氏は幕内
力士が多い系統とそうでない系統では取組に不公平
が生じると考えていた。また、ファンの要望、土俵
の充実、相撲界の発展のためにも早く部屋別総当た
りを実現したほうがいいと時津風理事長に進言して
いた。双葉山の時津風と玉ノ海のニ所ノ関は戦後の
部屋経営難でともに苦労した仲であった。

<時津風>

昭和39年8月の理事会で、時津風理事長は提案とい
うより雑談のなかで触れた。「もはや、人情路論に
おぼれているときではない。部屋別について全員よ
く考えておくように」と話した。そして時津風は世
論を味方につけた。こうして昭和40年一月場所から
部屋別総当たり制が実施された。

昭和42年三月場所前、時津風理事長の部屋別総当た
りに続く大改革があった。関取を16人一挙に大削減
する番付削減案である。とりわけ十両力士は一転幕
下力士に降格するだけに深刻だった。大改革の実施
は五月場所からであった。それが以下である。
幕内40人→34人
十両36人→26人
幕下約200人→120人前後

悲惨を極めたのは幕下落ち次の力士であった。
東8枚目小城ノ花7勝
東12枚目安芸の國8勝
東15枚目前田川 9勝

<昭和42年五月場所の番付>

昭和43年は相撲協会の改革機構の年であった。取締
を廃止し、取締・理事15人を理事10人とした。立候
補による選挙で選出することになった。現在の理事
10人体制はこのとき始まった。

この年、時津風は肝炎で入退院を繰り返していた。
昭和43年12月、理事長のまま帰らぬ人となった。ま
だ56歳だった。理事長任期は約11年7カ月だった.、

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次