5月30日は大の里の奉納土俵入りの日である。あいにく前日から降
りしきる雨のため公開はなくなったようだ。神殿のなかつまり建物
なかでおこなうらしい。途中で雨がやんでも決定事項のようだ。係
員、3人くらい並んでいた方の話を総合すると以上になる。実際は
どうなったか、ニュースで確認いただきたい。

大の里の横綱の土俵りは師匠ニ所ノ関(元稀勢の里)ゆずりの型で
ある。それはせり上がるときに左手を曲げ、右手をのばす型である。
メディアでは雲竜型と称されている。一方、照ノ富士、白鵬などが
見せるせり上がるときに両手を広げる型は不知火型と呼ばれている。
何が問題なのか。

まず、初めに言っておくことは、江戸の横綱雲竜も不知火(諾)も
どんな土俵入りをしたか、まるでわかっていない点である。明治2
年に撮影された写真がある。右が鬼面山、左が不知火(光)である。
鬼面山が両手を広げ、不知火(光)が左手を曲げ、右手を伸ばして
いる。これこそが不知火の土俵入りの型ではないだろうか。この写
真はかなり有力な判断材料になる。

明治、大砲、常陸山、2代目梅ヶ谷の横綱の土俵入りは不知火の型
を踏襲したものである、と新聞で報道された。2代目梅ヶ谷の横綱
の土俵入りについて、木村瀬平が「(2代目)梅ヶ谷の土俵入りは
すべて不知火にのっとったものである」という趣旨のことを話して
いる。

明治44年2月、太刀山が横綱に昇進した。土俵入りはせり上がると
き、両手を広げる型を選択した。太刀山は「わしは不器用なので、
庄之助に教わった雲龍の型からとった」と語っている。この発言を
元に各新聞は太刀山の土俵入りは雲竜型と書いた。
ここまでの流れをみると今、雲竜型といっている横綱の土俵入りは
実は不知火型で、不知火型といっている横綱の土俵入りは雲竜型で
ある。ところが太刀山談話とは逆に、彼の土俵入りは「不知火型」
と書いた新聞もいくつか出てきた。この辺に混乱の源があるようだ。
実は、雲竜型が不知火型に不知火型が雲竜型と誤って伝わってしま
った元凶は、相撲評論家の彦山光三氏にあった。昭和16年相撲評論
家の彦山光三氏が、羽黒山の土俵入りを不知火型と決めつけてしま
った。その根拠は、不知火(諾)が両手を広げて立っている錦絵が
あることであった。そしてそのほかの土俵入りを雲竜型としてしま
った。

しかし、不知火(諾)の錦絵がせり上がったまま両手を広げたとは
言い切れない。現に大砲は左手を曲げてせり上がってから両手を広
げた。また、常陸山は土俵の中央で2度拍手を打ってから両手を広
げている。なお、大砲、常陸山の型はその後引き継がれていない。
今の雲竜型、不知火型は、彦山氏によって昭和16年に根拠ともいえ
ない根拠によって決まったものに過ぎない。これが一人歩きしてし
まったところに根本的誤りがある。2代目梅ヶ谷と太刀山の型、こ
の2つが脈々と引き継がれて現代に至っている。したがって、横綱
の土俵入りを梅ヶ谷型、太刀山型と呼ぶのが適切との指摘がある。
土俵の目撃者もこの見解を取っている。どうも、横綱に関しては間
違いだらけである。