大相撲

明治東西制番付編成事情

日頃、相撲ファン・相撲愛好家は部屋別総当たり制
のもとでの予想番付を作成してきた。大相撲は長い
間同じ片屋同士は対戦してこなかった。東西制では
番付はどのように編成されたのか。東は東だけで、
西は西で編成するのだから東西の成績に差がつけば
難しくなる。

まず、明治43年夏場所国技館最初の番付をみていこ
う。横綱は東西に常陸山、梅ヶ谷、大関に太刀山の
名がみえる。当時不戦勝不戦敗制度はなく、対戦相
手が休場したら自分も「や」扱いになった。このと
き東85点、西59点で東の勝利となった。翌場所明治
43年春場所の番付が以下である。

西ノ海が新大関になった。西方力士だった立川が東
にまわった。それも負け越しながら番付をアップし
ている。反対側の方屋への移籍はご都合主義でけっ
こうある。

東の大湊4勝4敗の五分で番付を3枚あげた。これ
に対し西の黒瀬川は5勝5敗で9枚上げている。東
幕尻氷見ヶ濱は負け越しながら現状維持となった。
西方鏡川は負け越して4枚アップしている。この辺
が東西制番付の限界をモノがたっている。

司天竜は大鳴門に改名している。なお、東西制は幕
内だけである。それだけではない。十両の番数は力
士によって取る数がまちまちである。

東西制番付は現代からみると頭をひねることが多い
かもしれない。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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