大相撲

両雄激突!常陸山対太刀山

常陸山と太刀山は横綱が実質地位化した常陸山以降
では10大横綱にはいる大横綱である。常陸山は角聖
と呼ばれ、2代目梅ヶ谷とともに明治の黄金期を築
いた。相手に相撲を取らせてから勝つ横綱相撲のイ
メージは常陸山がつくった。得意は泉川からのため
出しであった。

45日のてっぽうといわれた太刀山。45日は一突き半
のしゃれである。引き分け預かりを挟んで43連勝し
ている。なお、よくいわれる56連勝は自己都合の全
休を3場所はさんでいるので無効である。

<常陸山のブロマイド>

その常陸山と太刀山は幕内で9回対戦している。最
初の対戦は明治36年夏場所であった。常陸山は大関
最後、太刀山は入幕2場所目で前頭2枚目だった。
地位が上の常陸山が勝っている。常陸山は場所後横
綱に昇進した。翌場所明治37年春場所横綱常陸山と
前頭2枚目太刀山が対戦した。ここでも番付の違い
で常陸山が勝利した。

この後常陸山に全休と途中休場があり、3回目の対
戦は明治38年夏場所になった。太刀山は関脇になっ
ていた。この一番仕切り直し25分。立ち上がるや太
刀山の激しい張り手で常陸屋は鼻から流血。常陸山
耐えて左四つになるも鼻血がとまらず、痛み分けと
なった。

翌場所明治39年春場所、両雄は再び激突した。関脇
太刀山の上突っ張りを常陸山があてがう。太刀山の
体のおきたところをはず押しで、一気に押し出した。

<太刀山のブロマイド>

太刀山の途中休場、常陸山の全休で5度目の対戦は
明治40年夏場所になった。関脇太刀山の声で立った。
太刀山はてっぽうを連射、常陸山を土俵際に追い込
む。常陸山まわり込んで、両雄激しい攻防。最期は
太刀山が常陸山の右を取り、左へ動いてはたき込ん
だ。太刀山は常陸山戦初勝利を成し遂げた。

常陸山の全休、途中休場1場所で6度目の対戦は明
治42年夏場所となった。国技館開設の場所である。
太刀山は新大関であった。相撲は太刀山が立たない
とみせかけ、相手が力を抜いたところを立つペテン
立ちとなった。常陸山残して右差し、土俵の中央に
戻してすくい投げ。太刀山残して、またも激しい攻
防戦となる。最期は太刀山が寄り立て常陸山弓なり
でこらえるも寄り倒しで太刀山が勝った。

<旧両国国技館絵葉書>

常陸山は太刀山に勝てなくなった。この後1敗2分
である。以下常陸山からみた成績である。
大関常陸山対平幕太刀山 1勝
横綱常陸山対関脇以下太刀山 2勝1敗1分
横綱常陸山対大関太刀山 2敗1分
横綱常陸山対横綱太刀山 1分
通算3勝3敗3分で両雄の対戦は終わっている。

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村
  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.