大相撲

相撲界の珍事

これまで横綱・大関の再出場、不戦敗の翌日の出場、
表彰なき優勝など相撲界の珍事を取り上げてきた。
今年の七月場所、コロナ禍によって部屋ごと休場で
多くの力士が休場に追い込まれたことも珍事に入る
かもしれない。ほかに何があるか探ってみた。

■休場-出場-再休場した横綱
明治43年夏場所、2代目梅ヶ谷は4日間休場後、千
年川(ちとせがわ)と引き分け翌日から5日間休場
した。国技館開設3場所目のことであった。どういう
事情によるものなのか、酒井忠正著日本相撲史中巻
(発行所ベースボール・マガジン社)は何も伝えて
いない。なお、貴乃花は出場-休場-再出場-引退
である。近年では珍しいケースだった。

<2代目梅ヶ谷のブロマイド>

■大日本選手権大会で年寄春日野が優勝
昭和6年大日本選手権大会が施行された。これは
昭和5年6年と宮中で行われた天覧相撲を記念して
毎年夏場諸後に行われることになった。参加は十両
以上の力士と年寄11人であった。

本場所でないからケガをしない程度にという風潮は
なく、真剣勝負だった。結果は春日野(元栃木山)
が優勝、2位玉錦、3位天竜だった。この日のため
に稽古したとはいえ、春日野は引退から6年、39歳
であった。もっとも好成績のままの引退ではあった。
沖ツ海、鏡岩、若瀬川、玉錦、能代潟、玉錦、天竜
と現役を次々に撃破しての優勝だった。

<栃木山のブロマイド>

■理事長が土俵下で取組を注視
史上初、横綱が全勝で千秋楽結びの一番で激突した
のが昭和35年三月場所だった。栃錦、若乃花ともに
14戦全勝で千秋楽結びの一番で勝ったほうが優勝と
いうこれ以上ない舞台となった。この一番を当時
理事長だった時津風(元双葉山)が静かに土俵下に
座り注視した。

<時津風>

相撲は左四つがっぷりになり、小競り合いの動きが
あったものの膠着した。栃錦が差し手をぬいて若乃
花の上手を切りにいくが、若乃花はかまわず引き
つけて栃錦を寄り切った。後にも先にも理事長が
土俵下で取組を注視したのはこのときだけだった。

■横綱対大関戦が4日目に実現
昭和40年から部屋別総あたり制が実現した。それに
よって本家対分家、分家対分家が対戦することに
なった。出羽海(元出羽ノ花)部屋と春日野(元
栃錦)の力士も対戦することになった。出羽海部屋
では大関佐田の山が13勝-13勝で横綱を目指して
いた。横綱栃ノ海は9勝-3敗途中休場と苦しい
土俵が続いていた。

<佐田の山のブロマイド>

そんな中で4日目突如横綱栃ノ海対大関佐田の山戦が
実現した。ともに3勝同士であった。終盤に対戦
させておかしな目で見られるのを避けた。と推測
された。相撲は外掛けにいく栃ノ海を佐田の山が
うっちゃって勝っている。佐田の山はこの場所優勝
して横綱を手中にした。栃ノ海は8勝7敗に終わり、
ますます苦難に陥った。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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