昭和大相撲史に横綱不在の時期がある。横綱常ノ花が
昭和5年夏場所引退すると、横綱は大阪相撲で横綱に
なった宮城山一人になった。その宮城山も35歳であっ
た。常ノ花引退のわずか2場所後に引退した。こう
して横綱不在の時代に入った。ただ、候補がいなかっ
たわけではない。大関玉錦が控えていた。玉錦はすで
に第一人者であるが、いっこうに横綱に昇進する気配
がなかった。玉錦のケンカ早い性格か小部屋の悲哀
か。
玉錦は横綱不在時代10勝1敗優勝(3連覇)-8勝3
敗-9勝2敗次点-7勝1敗次点-8勝2敗次点-
10勝1敗優勝で横綱になれず、翌場所7勝4敗後に
横綱に昇進した。7勝4敗が決め手になったわけでは
なく、これまでの実績と春秋園事件で協会にとどまっ
たことが評価されたようである。
若き大鵬と柏戸が横綱に昇進したのは昭和36年九月
場所後であった。それから約8年後柏戸は引退した。
柏戸のあとに栃ノ海と佐田の山が横綱になったが、
先に引退していた。柏戸はあとに続く横綱が生まれ
ないので、辞めるに辞められなかった。だが、そうも
いっていられなくて引退した。「大鵬関すまない」
という思いだった。大鵬は晩年だった。衰えは明確
だった。
大鵬休場の間に奮起した北の富士が連続優勝で横綱を
決めた。清国だけに甘い汁をすわせてたまるか、と
奮起した結果であった。燃える要素があるときの北の
富士は強かった。これまで横綱を見送られた経緯が
ある玉乃島があわせて横綱に推挙された。北の富士の
大関在位21場所、玉乃島は20場所という長期在位で
あった。当時横綱の大関在位新記録であった。
平成4年五月場所を前に北勝海が引退して、横綱不在
になった。だが、当時は曙、貴花田が控えており、
何の心配もない時期だった。事実横綱不在は曙の横綱
誕生によって5場所で解消された。
白鵬・鶴竜の休場は目立っていった。それは令和2年
七月場所から始まった。連続5場所休場中の途中で
鶴竜は引退した。白鵬は翌場所も休場し、令和3年
七月場所、全勝優勝で最後を飾った。七月場所後照ノ
富士が横綱に昇進した。白鵬は九月場所部屋ごと休場
した後引退した。
現代は照ノ富士の一人横綱である。しかも九月場所は
途中休場している。今年2回目の休場である。十一月
場所の出場も危ぶまれている。横綱候補は見えてこな
い。現代こそ横綱誕生せずの最大の危機にある。