現在の大相撲は優勝、正式には幕内最高優勝
に最大の注目が集まる。優勝はときには様々
なドラマをみせてきた。関脇双葉山が玉錦を
倒して初優勝したとき、覇者交代の一番と
言われた。栃錦が初優勝したときは感極まっ
て涙が止まらなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/北の富士-e1643944894655.jpg)
出羽海(元出羽ノ花)から破門独立した九重
(元千代の山)部屋。元千代の山と行動を
ともにした大関北の冨士が直後の場所で初優
勝した感動はいまだに忘れられない。貴花田
が初優勝したときは日本中が熱狂した。
優勝制度は大正15年にスタートした。ところ
が困ったことに明治43年夏場所国技館の開設
とともに始まったと思い込んでいる方がいる。
新横綱の3連覇は太刀山、栃木山ということ
を平気で言う。どうしても言いたいのなら
注釈が必要である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/国技館-e1643944856350.jpg)
それは時事新報社という1新聞社が幕内最高
成績者の額を国技館に掲げる制度であった。
引き分け、預かり、無勝負が多く、6勝3分
1預と8勝2敗ではどちらが上かわかりにく
かった。なにより対戦相手が休場したら自分
も休場扱いとなった。不戦勝不戦敗制度は
なかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/高見山.jpg)
当時の人々のこの制度に対する意識はどう
だったのか。この制度はほとんど注目され
なかった。協会表彰は東西対抗の団体戦のみ
であった。なお、東西制は団体で勝利した
ほうが翌場所東にまわる。したがって東横綱
が西横綱より上とは必ずしも言い切れなかっ
た。また優勝旗は東西制とともにでき、団体
優勝したほうに渡された。なお、十両は東西
制ではなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/181125千秋楽表彰-002.jpg)
大正14年4月、東京角力協会は摂政官(後の
昭和天皇)より御下賜の金一封で優勝賜杯を
作成した。当時はまだ摂政賜杯と呼ばれた。
大正15年春場所から幕内最高成績者に協会
から渡されるようになった。個人優勝制度を
きっかけに取り直し制度、不戦勝不戦敗制度
が整備されていった。またこの光栄をともに
ということで大阪相撲との合併が成立した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2022/02/常の花-絵.jpg)
以降優勝制度は今日まで脈々と続いている。
値上げラッシュです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。