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花のニッパチ組の麒麟児死去!

麒麟児が3月1日亡くなられていたことが
判明した。多臓器不全のため67歳という若さ
であった。麒麟児といえば天覧相撲で組まれ
た富士櫻との両者一歩も引かない激しい突き
合いで見る者をわかした。はつらつとした
相撲を取った力士であった。現役当時は昭和
28年生まれに有望な力士が多く、花のニッパ
チ組の一人であった。ほかに北の湖、2代目
若乃花、金城(2代目栃光)、2代目大錦が
名前を連ねていた。

<麒麟児の訃報を伝えるスポーツニッポンの記事>

麒麟児は2代目の四股名である。大麒麟が
昭和46年五月場所に改名する以前は麒麟児と
名のっていた。麒麟児の年別成績は以下で
ある。入幕3場所目には上位に進出していた。
活躍が目覚しかったのは、昭和50年ではない
だろうか。横綱輪島には初顔から5連勝して
いる。この年だけで関脇3場所、小結2場所
在位し、殊勲賞1回、敢闘賞・技能賞を2回
受賞している。

麒麟児は現役のときに大きな事件に遭遇して
いる。昭和50年3月28日、師匠の佐賀ノ花の
二所ノ関が急性白血病で亡くなった。まだ
57歳だった。二所ノ関を継ぐ者は誰か。分家
していた大鵬がまず、名乗りでたが、辞退
している。継者候補はもう一人いた。大鵬の
弟弟子で元大関大麒麟の押尾川親方である。
昭和49年十一月場所限りで引退していた。
大鵬が分家独立後は部屋頭として稽古をつけ
てきた。

こうして二所ノ関部屋の後継は押尾川と遺族
側との譲渡条件が話し合われることになった。
ところが、話し合いはいっこうにらちがあか
なかった。遺族側は土地・建物以外に年寄株・
組織された後援会などを含めて3億8000万を
提示したという。当時の大卒の初任給が9万
1000円くらいの時代の額である。両者の金額
の開きは一説によると8000万円とも1億円
ともいわれた。

<押尾川と遺族の交渉を伝える記事>

決定するまで部屋の長老の元十勝岩の湊川が
暫定的に二所ノ関を継ぐことになった。暫定
だから部屋や年寄株を購入することはない。
押尾川と遺族側の未亡人の話はいつまでたっ
てもまとまらなかった。十勝岩の暫定二所ノ
関は五月場所だけでなく、七月場所まで持ち
越した。二所ノ関の後継候補は押尾川しか
いない。しかし、未亡人の心は「押尾川には
継いでほしくない」と思うように変わって
いた。

昭和50年の七月場所は上位総崩れのなか、
前頭筆頭の金剛(二所ノ関部屋)が優勝した。
先代の二所ノ関(元佐賀ノ花)の未亡人の頭
に大麒麟の押尾川の線は完全になくなって
いた。ここへ思いがけない金剛の優勝。未亡
人は次女と金剛を婚約させ、二所ノ関部屋の
後継者を金剛に引退後託すことにしたので
ある。

これでは押尾川の立場はない。このままでは
やがて後輩金剛の下で、部屋付き親方で過ご
すという屈辱的な図式になる。九月場所(14
日初日)前の4日、押尾川は協会(理事長
春日野=元栃錦)に押尾川部屋認可の嘆願書
を提出。青葉城、天竜ら16力士を連れて谷中
の瑞輪寺(ずいりんじ)に立てこもった。

<金剛優勝の記事(左が麒麟児)>

二所ノ関部屋の後継者に関して、麒麟児は
意見を控えていた。だが、押尾川について
いかず、後に金剛二所ノ関部屋の部屋付き
親方になったことから、麒麟児の意思が読み
取れる。

この事件は花籠(元大ノ海)が調停に乗り
出し、九月場所後青葉城を含む6人の押尾川
移籍で決着したように思えた。その後天竜が
プロレスに転向。婚約だけで籍は入れていな
かった次女は金剛の元を離れて別の方と生活
するようになった。二所ノ関部屋は金剛の代
で閉鎖することになった。部屋付きの親方
だった元麒麟児の北陣は元若嶋津の松ヶ根
部屋に移籍している。

何年か前に福岡の吉野家で元麒麟児の北陣を
お見かけしたが、最初は誰かわからないほど
変貌していた。いかにもお年を召されたと
いう印象だった。さようなら麒麟児。

中途半端な天気です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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