大相撲

横綱フル出場なしの場所3

■昭和20年代 2回
昭和23年秋場所、横綱は3人。羽黒山全休、
照國途中休場、前田山途中休場後再出場だっ
た。羽黒山は昭和23年4月の巡業中アキレス
腱を切断した。手術したが、7月に再び断裂
してこの場所は全休2場所目であった。全休
は翌場所まで続いた。優勝は決定戦になった。
大関東富士と関脇増位山の間でおこなわれた。
本割りでは増位山が勝っていた。優勝決定戦
は東富士の寄りを増位山が左へうっちゃり、
増位山が優勝した。場所後東富士は横綱に、
増位山は大関へ昇進した。

<増位山のブロマイド>

次は昭和25年春場所であった。この場所から
蔵前仮説国技館で開催されるようになった。
横綱羽黒山・東富士は途中休場後再出場、
照國は途中休場だった。優勝は大関千代ノ山
であった。先場所新大関で優勝していたので
連続優勝になったが、横綱昇進はなかった。
翌場所千代ノ山は8勝7敗に終わっている。
横綱審議委員会の横綱昇進内規は若乃花から
適用された。

<千代ノ山のブロマイド>

■昭和30年代 なし
■昭和40年代 6回
昭和30年代は横綱フル出場なしの場所はなか
った。昭和40年代は6回ある。最初は昭和
43年五月場所であった。大鵬は全休、柏戸は
途中休場であった。昭和40年一月場所から
部屋別総あたりに入っていた。柏戸のあとに
横綱になった栃ノ海・佐田の山は先に引退
していた。そんななか、大関玉乃島が13勝
2敗で初優勝した。次点が10勝5敗だから
優勝争いに緊張感はなかった。大関10場所目
の優勝だった。

<玉乃島>

次が昭和44年十一月場所であった。大鵬は
一人横綱になっていた。昭和44年後半、大鵬
は衰えをみせてきた。大鵬は前半で3敗して
途中休場した。七月場所は清國が新大関で
初優勝した。清國に甘い汁を吸わせておける
かと、燃える要素があると強い大関北の富士
が久々に優勝して横綱に近づいた。13勝2敗、
2回目の優勝だった。

<北の富士>

3回目はその翌場所昭和45年一月場所であっ
た。一人横綱大鵬は全休した。優勝は大関
北の富士と大関玉乃島の間で争われた。千秋
楽を迎え北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦
した。北の富士が勝てば横綱確定。それは
玉乃島の敗北を意味し、玉乃島12勝3敗なら
横綱はなかった。この一番は玉乃島が吊り
出しで勝って優勝決定戦にもつれこんだ。
決定戦は北の富士が速攻から外掛けで勝って
連続優勝した。北の富士の横綱は決定的に
なった。玉乃島はこれまで横綱を見送られた
経緯も手伝って横綱に昇進した。

(この項目続く)

ビックカメラに行きます。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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