大相撲

優勝回数物語2横綱最終優勝年齢番付付き

2019年12月9日

戦後、昭和22年夏場所から優勝決定戦制度が
開始された。また、昭和24年から年3場所制
になった。戦後の混乱期で一定の会場をもた
なかったが、昭和25年から蔵前仮設国技館で
興行するようになった。年3場所制は昭和
27年まで続き、昭和28年から年4場所制に
なった。昭和29年秋場所から完成した蔵前
国技館が常設会場となった。

昭和32年からは福岡開催が加わり、年5場所
制になった。と思ったら、翌年名古屋で開催
され、年6場所となり、現在に続いている。
年6場所は力士を消耗させるという見方が
すでに出ていた。場所が増えたから優勝回数
が増えたかというと、そうはいかなかった。
拮抗するライバル栃錦、初代若乃花が10回
優勝を成し遂げた。最高優勝回数は依然双葉
山の12回であった。
大鵬
<優勝32回大鵬>

昭和35年若くて将来を期待させる逸材が登場
した。大鵬である。入幕した年に優勝した。
横綱には21歳のときに昇進した。たちまち
優勝を重ねる大鵬に、双葉山の12回優勝を
超えるのは時間の問題だった。王者大鵬は
年6場所の申し子の如く優勝を重ね、30回に
到達したとき、一代年寄りを贈られた。

大鵬の優勝32回は不滅と思われた。大鵬より
少しだけ若くして横綱に昇進した力士に怪童
北の湖いる。北の湖の若さと将来性は大きな
期待を抱かせた。だが、優勝は24回と大鵬の
32回に肉薄すらできなかった。
千代
<優勝31回千代の富士>

大鵬の優勝32回に迫ったのは、意外な力士で
あった。ウルフ千代の富士であった。横綱
昇進は26歳であった。誰も優勝回数を積み
重ねていくとは予想できなかった。だが千代
の富士は、力士生命が長かった。30歳を超え
ても強さを発揮していった。ついに優勝は
31回までいった。並ぶか、超えるか。と思わ
れたが、36歳直前で力つきて引退した。
モンゴルからやってきたお騒がせ横綱朝青龍
は、周りに敵がいなく、優勝街道を突っ走った。
29歳で優勝は25回までいった。あるいは大鵬
に迫り、超える可能性を秘めていたが、自ら
の行動が原因で引退せざるを得なかった。
070211福祉 245
<優勝25回朝青龍>

朝青龍より遅れてモンゴルからやってきた
力士が白鵬である。白鵬は、敵なしであった。
特に朝青龍の事実上の強制引退後は、一人
天下であった。大鵬の優勝回数越えは、時間
の問題であった。いまや優勝回数は、大鵬を
大幅に上回り、43回にまでのばした。さらに、
50回を目指すという。50回となるとあと7回。
年2回優勝しても3年半かかることになる。
そのとき白鵬は、38歳になっている。
170723千秋楽パレード 090
<優勝43回白鵬>

優勝制度ができた大正15年以降、横綱最後の
優勝は何歳のときか。それを番付にしたのが、
下記である。当然、横綱優勝がない横綱の名
は、ここにはない。
横綱最終優勝年齢A
最高齢横綱優勝は、羽黒山の37歳である。
白鵬は今後年齢との戦いになる。50回優勝は
けして平坦な道ではない。

銀行と郵便局へ行ってきました。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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