大相撲

平幕優勝を検証する4

2014年5月4日

協会優勝制定時代 
部屋別総当り

中途半端な平幕優勝の横綱・大関戦 1

1971(昭和46)年7月から平幕好成績者を大関・横綱と
対戦させる規定ができる。ここから現在までのべ13人の
平幕優勝者がいるがさすがにEタイプの幕内中位以下で
星をかせぐもせいぜい関脇・小結との対戦で終わるまたは
平幕だけで星をかせぎ、数字だけの比較で優勝するケー
スはいなくなった。

優勝  対戦横綱 対戦大関  未対戦        休場
栃東   なし   清国        横綱北の富士 大関大麒麟
                                 (1休)       (全休)
                              大関琴桜   大関前の山
                                          (途中休場)
高見山             清国       なし       横綱北の富士
                    琴桜                    (全休)
                                          大関大麒麟
                                           (途中休場)
金剛  北の湖      魁傑           なし      横綱輪島
                 貴ノ花(途中休場)               (全休)
魁傑  北の湖     貴ノ花           なし
                   旭国
                    三重ノ海
多賀竜  なし        若嶋津    横綱千代の富士  横綱北の湖
                             朝潮      横綱隆の里         (途中休場)          
                             大関北天祐
                              大関琴風
琴富士    旭富士   小錦          横綱北勝海   横綱大乃国
                      霧島                      (途中引退)

13人目は1972(昭和47)年一月場所、前頭5枚目で優勝
した栃東である。この場所は大波乱、一人横綱の北の
富士が大乱調。大関は元々弱くあてにならない状態。誰が
優勝するか予想もつかない混乱状態。おまけに好成績者も
いなく、低レベルの優勝になることが予想された。

千秋楽を向かえ、10勝が琴桜、福の花、栃東の3人。福の
花が輪島に負け、琴桜が三重ノ海に負けるなか、結びの
一番清国対栃東戦が始まった。栃東が立ち合い変化からの
攻めでこの一番に勝利し、11勝で優勝を決めた。相撲
評論家の東富士氏はこれは優勝ではなく1位だと評した。

横綱玉の海亡き後の2場所後から横綱北の富士の乱れは
3場所続き、ついに1972(昭和47)年七月場所では全休に
追い込まれた。この場所は予想外の展開となった。前頭
4枚目で2敗の高見山を関脇で3敗の貴ノ花が追いかける
カタチとなった。しかし、最後まで差が縮まらず、高見
山が平幕14人目、また外国出身初の優勝者となった。

1975(昭和50)年七月場所は上位が総崩れと休場の中、
前頭筆頭の金剛が13勝2敗で優勝した。15人目の平幕
優勝である。追いかけたのは同じ二所ノ関部屋の青葉城
だが、12勝3敗で及ばなかった。

金剛の優勝が思わぬ波紋を広げることになった。この年の
3月に元佐賀ノ花の二所ノ関が亡くなった。暫定的に
元湊川(元十勝岩)が二所ノ関を名乗ったが、本格的に
後継者を決めなければならなかった。一時は大鵬も名乗り
をあげたが、元大関大麒麟の押尾川が有力候補であった。

ところが元佐賀ノ花の未亡人は次女と優勝した金剛を
婚約させ、将来金剛に部屋を継がせようとした。それを
知った押尾川は青葉城、天竜ら16人の弟子を連れて谷中の
端輪寺に立てこもった。この分裂騒動は結局花籠(元大
ノ海)の調停により、押尾川は青葉城ら6人を連れて
独立したものの規模はかなり縮小した。

金剛と次女は結婚式はあげたものの籍はいれていなかった、
あるいはすぐ離婚したなどとささやかれたがプライベート
なことなのでここでは詮索はしない。しかし、金剛は養子
という形で部屋運営にあたることになった。しかも、
二所ノ関部屋に無理やり残ることを強制された天竜は
1年後プロレスラーに転向して部屋をさった。

その二所ノ関部屋もいまやなく、金剛は名門を滅ぼす
役割を演ずることになってしまった。

16人目の平幕優勝の魁傑は元大関である。優勝した1976
(昭和51)年九月場所は大関陥落後5場所目である。前頭
4枚目と上位に位置しているため横綱・大関・関脇とも
対戦している。小結のとき優勝しているのでこれが2度目
の優勝であった。この優勝を機に2場所連続11勝をあげ
大関に復帰した。少し負けが込んでくると休場する横綱・
大関のなかにあって魁傑は「休場は試合放棄」の名言を
残している。

1984(昭和59)年、蔵前国技館最後の場所の優勝者と
なったのが17人目の多賀竜である。前頭12枚目で下から
3枚目である。多賀竜の横綱・大関戦は極端に少ない。
大関戦2番である。

この場所黒舟来航と小錦旋風がふきあれた。前頭6枚目の
12勝の小錦と13勝優勝の多賀竜の対戦相手を比較して
みよう。なお、横綱北の湖は途中休場

  横綱隆の里 千代の富士 大関若嶋津 北天祐 朝潮 琴風  
小錦      ○     ○             ○        同部屋 ●
多賀竜                         ○          
        ●

これを見る限り、バランスの悪さが目につく。単純に数字
だけで比較して優勝者を決めるのはやめたほうがいい。
出場した横綱・大関と全員対戦してこそ優勝の価値が
あるのであり、そうでない場合は優勝資格はないとする
規定の必要性を理解していただけたら幸いである。この
場合は両者とも全員と対戦していない。上位の最高成績は
若嶋津の11勝4敗。朝潮も11勝4敗だが、大関琴風と
千秋楽に合うのを多賀竜戦に変えたため、実現しなかった。
平幕の好成績者は早くから横綱・大関に当てないとこう
したことを引き起こす。

18人目は1991(平成3)年七月場所に前頭13枚目に14勝
1敗で優勝した琴富士である。上位の最高成績者で12勝
3敗の大関小錦と直接対戦して勝利している。小結貴花田、
前頭筆頭の曙とも対戦している。惜しむらくは横綱北勝海
戦がなかったことである。最近は悪いニュースでお騒がせ
しているのが残念。
<写真は高見山>
高見山
 

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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