幕内優勝は歴史とともにかなり合理的に進化してきた。
しかし、まだ不足はある。1つは成績によって優勝賞金を
決定すること。2つ目は平幕優勝は出場した横綱・大関
全員と対戦した場合に限るという優勝者資格制度である。
今回は後者に着目した。
幕内最高優勝とは何か。権威ある優勝にするためには
どうすべきか。言い方は悪いが今はみそもくそもいっ
しょにして数字だけを単純に比較している状態である。
優勝の価値は実力者であるすべての横綱・大関全員と
対戦してはじめて生まれるものである。
これを機会に平幕優勝を検証する。時代区分として優勝
新聞社制定時代と協会優勝制定時代に分けられる。さらに
優勝の仕組みに関わることを列挙した。平幕優勝も時代の
影響を受けながら生まれている。
優勝新聞社制定時代
①東西制
②同体取り直し
協会優勝制定時代
③引き分け2番後取り直し
④不戦勝・不戦敗制
⑤系統別総あたり
⑥東西制復活
⑦再び系統別総あたり
⑧優勝決定戦制度導入
⑨部屋別総あたり
⑩平幕上位戦あり
平幕優勝にどういうケースがあるのか。タイプ別に分けて
みた。
A 幕内上位で横綱・大関と当然のようにあたる地位での
優勝
B 幕内中位以下ながら横綱・大関全員とあたっての優勝
C 幕内中位以下で星をかせぐが取り組み編成の不十分から
全員ではなく半分以上の横綱・大関とあたっての優勝
D 同様に半分未満横綱・大関とあたっての優勝
E 幕内中位以下で星をかせぐもせいぜい関脇・小結との
対戦で終わるまたは平幕だけで星をかせぎ、数字だけの
比較で優勝するケース
優勝新聞社制定時代
第1次東西制
優勝 対戦横綱 対戦大関 未対戦 休場
高見山 梅ケ谷 太刀山
国見山
両国(勇) なし なし 横綱太刀山 横綱梅ヶ谷
大関伊勢ノ濱 大関鳳
(共に途中休場)
鶴ヶ濱 横綱不在 源氏山
千葉ヶ崎
意外?高見山は西の横綱・大関全員と対戦
1909(明治42)年雨でも興行できる常設館の完成に伴い、
時事新報社が最も成績が優秀な力士の額を国技館に掲げる
制度がスタートした。
この時期は優勝制度の前提ともいうべき時代なので時系
列で綴っていくことにする。ただし、東西の幕内団体
優勝はこのときでき、優勝した側の最高成績者が優勝旗を
受け取った。優勝した側が翌場所東にまわった。
第1回は1909(明治42)年六月場所平幕の高見山酉の助が
7勝3分で優勝した。東西制のため、高見山は東前頭7
枚目ながら西の横綱・大関と対戦している。横綱梅ヶ谷・
大関国見山と引き分け、大関太刀山に勝っての優勝で
あった。実力者全員との対戦があるAタイプの優勝で国技
館に優勝額がかかげられた。次点は7勝1敗2分の横綱
常陸山である。
2人目の平幕優勝は1914(大正3)年五月場所、東前頭
14枚目で9勝1やで優勝した両国勇治郎である。典型的な
Eタイプの平幕優勝で西の横綱・大関との対戦はない。
最高位の対戦相手は小結玉手山で千秋楽は下位で4勝
4敗1預の石山が対戦相手である。上位は太刀山の8勝
1預1やが最高成績だった。この時代は不戦勝制度が
なく、相手が休場すれば自分も休場扱いになった。
両国はこの場所が新入幕である。次の場所両国は前頭3
枚目に上がったが、横綱太刀山が全休、梅ヶ谷が途中休場、
大関伊勢ノ濱も3休のせいもあり、7勝2敗1分と好成績
を残した。
3人目の平幕優勝は1922(大正11)年一月場所、9勝1敗
の鶴ヶ濱である。鶴ヶ濱は東前頭4枚目という番付から
大関とは対戦している。東が大錦、栃木山という横綱が
いるのとは対照的に西は横綱がいなく、源氏山、千葉ヶ崎
の大関がいるだけで、偏った東西といえる。栃木山は
8勝1敗1預の僅差で優勝をのがしている。時代の限界
というしかない。
<写真は高見山のブロマイド>