協会優勝制定時代
引き分けをなくし、勝負を競う時代に
1925(大正14)年摂政宮殿下(後の昭和天皇)からの下賜
金によって天皇賜杯がつくられ、1926(大正15)年から
優勝力士に授与されるようになった。これを機に優勝者を
協会が認定するようになった。また、この年預かりが
正式に廃止になったが、すでに微妙な勝負の取り直しは
1916(大正5)年から実施されていた。引き分け2番後
取り直しも1926(大正15)年にスタートした。
第1次東西制
優勝 対戦横綱 対戦大関 未対戦 休場
大蛇山 なし 大関大ノ里 横綱常ノ花
(全休)
山錦 宮城山 豊国
玉錦
綾櫻 不在 玉錦
能代潟
協会認定の平幕優勝1人目は大蛇山はである。大蛇山は
1926(大正15)年五月場所西前頭8枚目、10勝1敗で優勝
した。対戦相手は関脇常陸岩が最高位。上位の最高成績は
同じ西方の横綱西ノ海と西小結小野川の9勝2敗であった。
この場所幕内の星取表は「や」以外すべて○●で表記
されている。
1028(昭和3)年には不戦勝・不戦敗制度が導入された。
これまでは対戦相手が休むと自分も休み扱いになった。
2人目は1930(昭和5)年五月場所、東前頭5枚目の
山錦である。山錦は11戦全勝で西方の横綱宮城山、大関
豊国、大関玉錦を撃破して堂々の優勝。上位は東大関
大ノ里、西大関玉錦の9勝2敗が最高の成績だった。
3人目は1931(昭和6)年十月場所、前頭4枚目の綾櫻で
ある。綾櫻の東はすべて出羽の海部屋で独占。横綱不在の
中、大関玉錦を倒し、大関能代潟に負けただけの10勝1敗
で優勝。上位の最高成績は玉錦の9勝2敗だった。なお
綾櫻はこのあと春秋園事件で協会を脱退している。
※春秋園事件…改革をとなえる天竜・大ノ里ら出羽の海
部屋を中心とする力士団が協会の会計制度の確立と収支の
明確など10の要求を協会に提出し、中華料理店の春秋園に
立てこもった。結局協会と話が折り合わず、出羽の海部屋
以外の力士を含め多くの力士が脱退した事件。1932(昭和7
年)1月のことである。
以外の力士を含め多くの力士が脱退した事件。1932(昭和7
年)1月のことである。
第1次系統別総当たり制
春秋園事件で多くの力士が脱退したため、1932(昭和7)
年二月場所から取組を系統別総当り制とした。
優勝 対戦横綱 対戦大関 未対戦 休場
男女ノ川 玉錦 清水川
武蔵山
出羽湊 なし なし 横綱双葉山
横綱男女ノ川
大関前田山
大関鏡岩(負け越し)
4人目は1933(昭和8)年一月場所の幕別席の朝潮改め
男女ノ川である。春秋園事件で大量の脱退力士を出したが、
多くの力士が復帰したため急遽まにあわせで幕内東西に
6枚の別席を設けた。男女ノ川は脱退しなければ1932
(昭和7)年一月場所では前頭3枚目であった。復帰した
男女ノ川は11戦全勝で優勝。系統別のため横綱玉錦、
大関清水川、大関武蔵山を倒して文句なしの優勝だった。
5人目は出羽湊である。出羽湊は双葉山の連勝が69で
ストップした1939(昭和14)年一月場所に13戦全勝で
優勝した。この場所双葉山は3連敗をきっするなど不調。
出羽湊は前頭17枚目で小結羽黒山、小結玉ノ海が最高位の
対戦相手だった。
ただし玉ノ海戦は八百長だったと玉ノ海自身が後に著書で
明かした。観客をだますこの行為を悔いた彼は大関陥落の
ピンチであった五ッ島戦では八百長の申し入れを断った。
上位での最高成績は男女ノ川の11勝2敗だった。
余談になるが大鵬が登場し、双葉山の12回を超えてさらに
優勝回数を重ねていっていたとき、双葉山は年2場所で
12回優勝だから年6場所なら36回できたという声があった。
それに対して、じゃあ出羽湊は年6場所なら3回優勝が
できたんだと切り返したエピソードがある。
第2次東西制
出羽の海系の力士が番付の半分を占めたこともあって
1930(昭和15)年再び東西制が復活した。
優勝 対戦横綱 対戦大関 未対戦 休場
備州山 羽黒山 佐賀ノ花 横綱双葉山
(負け越し) (途中休場)
6人目は1945(昭和20)年六月場所、東前頭筆頭の備州山
である。太平洋戦争で戦火が激しくなる中の七日間興行で
あるが、7戦全勝で優勝した。この時点では再び東西制に
もどっていたが、西横綱の羽黒山、大関佐賀ノ花を倒して
の優勝である。同じ東方の安芸ノ海、東富士が6勝1敗だが
直接対戦することがないだけにどうしようもなかった。