問題にあわせ解答も「ですます調」で書いていきます・
★今年の土俵から
1.元大横綱大鵬が亡くなりましたが、大鵬の優勝に
関する問題です。大鵬の優勝といえばあまりにも32回
最高回数が有名ですが、他にも大鵬だけがもつ優勝に
関する最高記録があります。それは何でしょう。この
記録はなかなか破れないと思います。
答 大鵬は入幕した年から引退する年まですべて
優勝しています。特に入幕した年に優勝することは
かなり至難だと思います。
2.裁判の判決の結果、蒼国来が協会に復帰しました。
ほかに一度クビになって復帰した力士をあげてください。
答 清水川と玉乃海(横綱玉の海の師匠)
清水川がなぜクビになり、どのように復帰したかは
近く執筆する「大関考 名大関は清水川一人」を
ご覧いただきたい。
玉乃海は注釈が必要です。というのも協会が主体
となってクビにしたのではなく、相手が悪く、条件を
のまざるを得なかったからです。どういうことか
以下をお読みください。
そのとき二代目玉乃海は幕下でした。正確にいうと
まだ玉乃海とは名乗っていませんが、便宜上玉乃海で
通します。
事件は戦時中の1940年上海巡業で起こりました。
酒がはいった玉乃海がひょんなことから喧嘩になって
しまいました。そこへ憲兵が駆けつけたのですが、
軍刀の鞘で玉乃海を殴ったため、怒りの玉乃海が
憲兵をたたきのしてしまったのです。応援部隊が
銃をかまえる騒ぎにまで発展してしまいました。
相手が憲兵なので師匠の二所ノ関(玉ノ海)と大関
羽黒山が必死に詫びをいれどうにかことを収めました。
しかし、憲兵側から協会破門という条件がつけられ、
玉乃海は協会を去らざるを得なくなりました。復帰
したのはなんと約9年後でした。
3.名門二所ノ関部屋が消滅しましたが、二所ノ関
部屋から一度独立して、また本家に戻った部屋は
どこでしょう。また、二所一門繁栄の祖玉錦の師匠は
誰でしょう。
湊川部屋です。二初ノ関部屋は玉ノ海が師匠のとき
当時画期的な分家独立を奨励し、十勝岩が1953(昭和
28)年に部屋を興して誕生しました。1965(昭和40)
年の部屋別総当たり実施を前に二所ノ関に合併しました。
玉錦の師匠は海山です。この四股名は神風が一時
名乗ったことがあります。海山は大阪相撲から
東京の友綱部屋に入りました。引退後二所ノ関部屋を
興しましたが、稽古土俵がない状態でした。
4.北の湖親方が還暦の土俵入りをしましたが、
還暦の土俵入りをした横綱は北の湖以外8人います。
すべてあげてください。
現役名で記します。
太刀山、栃木山、常ノ花、栃錦、初代若乃花、大鵬、
北の富士、三重ノ海の8人です。
このうち3人が国技館を使用していません。太刀山が
上野精養軒、北の富士と三重ノ海がホテルを使用
しています。
また自分が育てた横綱を太刀持ち。露払いに従えたのは
初代若乃花(太刀持ち二代若乃花、露払い隆の里)と
北の富士(太刀持ち千代の富士、露払い北勝海)です。
三重ノ海は自分が育てた大関出島を太刀持ちに大関
雅山を露払いにして土俵入りをしました。
栃錦は次期理事長候補の初代若乃花を太刀持ちに、
その次の理事長候補佐田の山を露払いにしています。
現役が太刀持ち・露払いを務めたケースが2回あり
ます。栃木山の太刀持ちを羽黒山、常ノ花の露払いを
弟子の千代の山が務めました。、
<写真は玉乃海のブロマイド>