東西制は明治42年夏場所、国技館開設とともに始ま
った。もっともそれ以前も取組は東対西であった。
それを東西の優劣を決める団体戦にしたわけである。
勝ったほうが翌場所東にまわる。現代の部屋別総あ
たり制を見慣れている相撲ファンからすると奇妙に
思えるかもしれない。
問題点がいくつかある。
1.横綱の1勝と幕尻の1勝が同じ扱いになる
2.片方が圧勝すると東は東だけで、西は西だけで
番付を編成するのだから無理が出る
3.番付のバランス上、片屋を変更することがあり、
一定しないケースが出てくる
3は一例として横綱2代目梅ヶ谷と横綱太刀山は同
じ方屋であった。ところが反対側の横綱常陸山が引
退すると片方が横綱2人、反対側が横綱0となって
しまった。そのため、2場所後2代目梅ヶ谷は常陸
山がいたほうの方屋に移った。もっとも2代目梅ヶ
谷は休場がちで太刀山戦は実現しなかった。
昭和7年1月春秋園事件が起こり、大量の力士脱退
につながった。やむなく取組は系統別に切りかわっ
た。やがて復帰力士が出てき、出羽海部屋の力士が
幕内の半数近くを占めてくると、再び東西制に戻った。
昭和15年春場所のことであった。
戦後、日本の古いものはだめという風潮のなかで相
撲人気は低迷した。相撲協会は記者クラブとともに
知恵を出し合い、この窮地を脱したかった。そのな
かに優勝決定戦、三賞、そして系統別総あたり制が
あった。系統別総あたり制は好取組を出すのが狙い
だった。
ところが、相撲協会一部に猛反対が出た。反対した
のは立浪(元緑嶋)取締、出羽海(両国前名国岩)
相談役でもめにもめた。ところが改革派の藤島(元
常ノ花)、伊勢ヶ濱(元清瀬川)、力士会が賛成し、
やっと承諾となった。こうして系統別総あたりが復
活するとともに、東西制は歴史のなかに消えていっ
た。