七月場所、前頭2枚目12勝3敗で優勝した逸ノ城の
翌場所の番付が小結だった。その前の前頭筆頭大栄翔
が13勝2敗で優勝した翌場所の番付が、小結だった
ことに違和感を覚えた。そして今回の逸ノ城が小結
止まりということは、今後平幕上位優勝者は翌場所
小結が定着しかねない。これは適切な処置なのだろう
か。歴史を振り返ってみたい。
大正15年に始まった優勝制度以降、平幕優勝者はのべ
30人誕生した。そのうち横綱・大関との対戦圏内で
ある幕内上位の平幕優勝は14人である。そのうち山錦
は東京場所と地方場所の成績をあわせて番付を編成
していた。そのため山錦は翌場所もそのままの地位と
なった。実質13人の前頭上位の平幕優勝者のうち9人
が関脇に昇進している。大栄翔以前は11人中9人と
言える。
栃ノ心も前頭3枚目で優勝した翌場所は関脇だった。
もっともこのときは関脇玉鷲が6勝9敗で負け越し。
関脇候補は西筆頭逸ノ城10勝と西3枚目14勝の栃ノ心
であった。その結果栃ノ心の関脇となった。だが、
こういうケースばかりではない。
3関脇4関脇にしても幕内上位の平幕優勝者を関脇に
したケースがある。具体的には若三杉、金剛、水戸
泉、琴光喜の優勝の翌場所は3関脇であった、高見山
のときが4関脇であった。これは系統別総あたり及び
部屋別総あたりのもとでは前頭4枚目以上の平幕優勝
者は関脇に上げるのが通常化していたことを表して
いる。
大栄翔、逸ノ城の違和感の正体は、歴史的流れに対し
ての逆行にあった。問題はどちらが合理的思考である
かだ。近年、新大関、新横綱は先人横綱・大関の末端
に位置するようになった。今年の一月場所、関脇で
優勝した御嶽海が大関に昇進するとき、途中休場貴景
勝、負け越し正代の風下に立つという陳腐な番付と
なった。栃東以前は成績本位であった。平幕優勝者の
扱いを含め、もう少し合理的な思考ができないとつい
ていきようがなくなる。