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大相撲!事始

日ごろあたり前のように接している大相撲。制度、
慣習、進行などは常識化しているが、物事には常に
始まりがある。それを探ってみたい。

■公益財団法人日本相撲協会

名称は次のように変遷している。
江戸   相撲会所
明治22年 東京角力協会
大正14年 財団法人大日本相撲協会認可
昭和2年 正式に財団法人大日本相撲協会の名称
昭和33年 財団法人日本相撲協会と改称
平成26年 公益財団法人日本相撲協会

<旧両国国技館の絵葉書>

相撲会所(すもうかいしょ)は宝暦7年(1757年)
ごろできた職業相撲の組織である。明治19年1月、
筆頭を取締に、筆脇を副取締に改称している。明治22
年1月、相撲会所を東京角力協会に改称した。年寄
名義を88に限定した。

転換期は大正14年12月28日の財団法人認可であった。
協会は外部の人材を迎え、運営の改革に着手した。
税制上の優遇が大きかった。昭和2年の東西合併で
正式使用した。昭和33年1月に財団法人日本相撲協会
に改称した。表彰状の読み上げでさんざん聞いてきた
のはこの名称だった。平成26年1月30日、公益財団
法人日本相撲協会として新たな出発をしてからまだ
歴史は浅い。

<八角(元北勝海)理事長>

■審判員土俵下に降りる

土俵下の審判員、現代ではきわめてあたり前の光景で
ある。しかしそうでない時代があった。どこにいた
のか。屋根式の屋形を支える四本柱を背にして座って
いた。だから4人であった。呼称も検査役であった。
力士がなだれ込んできたらかなり危険だと思えるが。
いつから土俵下に座り、5人になったか。昭和5年
夏場所からである。取締が検査長として加わった。
審判員という名称は、昭和43年の機構改革から使用
されるようになった。

<審判員>

■四本柱撤廃

屋根式の屋形をささえていたのは四本柱であった。
ところが、観客からすると柱は死角になって相撲が
見えにくかった。四本柱の始まりは寛政3年と伝え
られている。その伝統を撤廃するにあたり、賛否両論
が渦巻いた。「なくすのはいいが、屋形をどうする
んだ。まさか吊り下げるわけじゃあるまい」そのまさ
かになったのである。なごりとして屋形に4色の房を
下げたのである。かくして昭和27年秋場所から四本柱
は撤廃されて今日に至っているのである。

<旧両国国技館内の絵葉書>

■国技館1階封鎖

今13時を過ぎると国技館の1階に係員が立って、入場
するお客さんのチケットをチェックする。これはいっ
たいいつ始まったのか。相撲史に記されているのか
定かでないが、筆者のメモには残っている。それは
2010年九月場所からである。初期のころは出方さんが
13時まで入り口に立っていた。予告も説明もいっさい
なしであった。正式な理由は発表されていないが、
人のマス席に入って飲み食いして散らかしたからと
いう風説がある。今年で12年続いたことになる。

<2010年九月場所封鎖された国技館1階>

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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