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年間最多勝の変遷6

昭和40年から部屋別総あたりが始まった。
大関が長かった佐田の山が横綱に昇進した。
その勢いのまま年間最多勝力士となった。
佐田の山にとっては唯一の年間最多勝となっ
た。その翌年昭和41年、柏戸が初の年間最多
勝力士となった。年間最多勝は休場があると
どうしても不利なる。大鵬はそうした原理で
遠ざかっていった。

それでも昭和42年は柏戸と年間最多勝をわけ
あった。大鵬6度目の年間最多勝であったが、
これが最後となった。大鵬に代って浮上して
きたのが玉乃島であった。玉乃島は横綱への
チャンスをつかむものの、決定打にかけて
いた。昭和44年、北の富士が初の年間最多勝
力士となった。しかし、成績は63勝でまだ
絶対的強者とはいえなかった。

<柏戸>

昭和45年、横綱は大鵬一人のなか、北の富士、
玉乃島が横綱昇進を決めた。この年北の富士、
玉乃島改め玉の海が充実の1年となり、75勝
25敗で年間最多勝を分け合った。それは翌年
の昭和46年も続くと思われた。特に玉の海の
充実はすばらしく、腰で取る相撲は双葉山を
彷彿させた。

<北の富士>

その玉の海が急死した。現役横綱の死、それ
はあまりにも衝撃的過ぎる出来事だった。
昭和46年10月11日のことであった。玉の海は
虫垂炎を患っていた。玉の海は持ち前の責任
感から切らずに注射で散らしていた。それが
夏の巡業、九月の本場所と長期に渡っていた。
場所が終わっても一門の大先輩大鵬の引退
相撲が、10月2日に控えていた。

結局玉の海が入院したのは10月4日であり、
手術は6日になった。虫垂炎の手術だから
大事にはいたらないと誰しもが思っていた。
だが、それから5日後の10月11日、様態は
急変した。右肺動脈幹に発生した血栓症が
原因となって横綱玉の海は帰らぬ人となった。

<玉の海>

27歳の青年横綱玉の海の急死。それはあまり
にも突然で、これ以上ない悲しみの出来事
だった。日本中の大相撲ファンが玉の海の死
を惜しんだ。まだ取り盛り、双葉山の域に
どこまで近づけるか。そんな楽しみ、可能性
さえ失ってしまった。玉の海の死は相撲界に
とって、あまりにも大きな損失だった。

横浜市長選は興味深い結果となりました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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