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横綱10大史5 横綱地位となる

これまで横綱は上覧相撲を機会にそのときの
強豪力士が土俵入りをする資格であった。
それが幕末から強豪大関の称号と化した。
しかし、横綱の最大の変化は地位化である。
それはいつ、だれから始まったのか。
きっかけは横綱10大史3で述べた明治23年
夏場所、横綱免許の西ノ海に番付上苦肉の策
として横綱と表記したことである。それでは
この後どうなったのか。
明治23年5月_横綱文字初登場番付_西ノ海
<番付に横綱の文字登場>

明治29年春場所西ノ海が引退すると、
3月、小錦が横綱の免許を受けた。小錦も
番付では横綱と表記された。これは西ノ海を
引き継いだ形の習慣であって、横綱は地位
ではなく、端境期といえる。それはその後の
大砲にもいえる。明治34年春場所、小錦が
引退すると4月に大砲が横綱の免許を受けた。
大砲万右エ門
<大砲のパネル写真>

ここまで横綱は入れ代わりで登場してきた。
ところが、明治37年常陸山と2代目梅ヶ谷が
同日横綱として誕生した。そのとき、本当の
意味で初めて横綱に張出が設けられた。先輩
横綱大砲が張出横綱にまわったのだ。これは
まぎれもなく、横綱を地位扱いしたもので
ある。
横綱常陸山
<常陸山のブロマイド>

それを裏付けるように、明治42年2月、東京
角力協会は横綱を最高力士として明文化した。
実は、大砲はこの後引退する明治41年春場所
まで張出横綱のままだった。横綱の実質地位
化は常陸山以降である。横綱は大関の上の
最高の地位となり、それが現代まで脈々と
続くようになったのである。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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