蔵前国技館は、現在の両国国技館(昭和60年〜)の前に大相撲が開かれていた国技館である。昭和25年に仮設で始まり、昭和29年秋場所に完成、昭和59年(1984年)まで約31年間使われた。戦後、旧両国国技館が占領軍に接収されたため、開催場所を失った大相撲が、旧海軍航空隊の払い下げ鉄骨を使って建てた。場所は台東区蔵前で、浅草橋・両国から徒歩10分だった。「夏は暖房、冬は冷房」と長く言われた建物でもある。
※この記事は、蔵前国技館を実際に知る筆者がまとめた予備知識である。現在のチケットの取り方や席の種類は大相撲チケットの取り方にまとめている。
蔵前国技館を語るというテーマで呼ばれたことがある。大相撲文化を伝えるためである。今の両国国技館は昭和60年から使われて現在に至り、すでに41年目に入っている。蔵前国技館を知っている者は年々減っていく。隅々まで知っているわけではないが、予備知識をまとめてみた。
なぜ蔵前に国技館が建てられたのか
旧両国国技館こと「メモリアルホール」は、戦後に占領軍へ接収された。日本人立ち入り禁止の立て札が立った。大相撲は開催場所を求めて、しばらくジプシーのような状態が続く。東京場所は明治神宮外苑や浜町の仮設国技館で興行し、大阪でも本場所を開いた。昭和22年から24年までのことである。
そこで、戦前から購入して倉庫会社に貸し出していた蔵前の土地に、国技館を建てることにした。旧海軍の飛行機組み立て工場を解体した払い下げの鉄骨を骨組みに使い、屋根と囲いはトタンぶきという突貫工事で間に合わせた。こうして昭和25年から、蔵前仮設国技館で本場所が始まった。

蔵前国技館の特徴
蔵前国技館が完成したのは昭和29年の秋場所だった。そのときの横綱は、東富士・千代の山・鏡里・吉葉山である。蔵前国技館は「夏は暖房、冬は冷房」と長いあいだ言われてきた。元双葉山の時津風理事長は「熱戦であたたまってくれ」と語っていたという。冷暖房設備が整ったのは昭和45年内のことである。
蔵前国技館は、とにかく広かった。お茶屋は外付けで、その奥と正門から入った。支度部屋の出入り口前まで行くことができ、その前の通路で反対側の方屋の出入り口にも回れた。支度部屋から外に出ると駐車場で、駐車場に立つと前後に開く窓から支度部屋が覗けた。2階のイス席は急斜面ではなく、一番後ろに低くなった通路があった。百聞は一見にしかずで、ちばてつや作の漫画「のたり松太郎」にくわしく描かれている。アクセスは浅草橋・両国から徒歩10分で、ほかに地下鉄もあった。

蔵前国技館と両国国技館の違い
蔵前国技館の鉄骨は、旧海軍航空隊の飛行場の工場を組み立てたものだった。そのため約31年間の使用ののち、新しい国技館へと場所を移すことになる。新国技館の建設は、一代の大事業であった。現在の両国国技館では、北の湖・千代の富士・北勝海から大の里までの横綱が土俵にあがっている。もっとも北の湖は、新国技館では2日間土俵に上がって連敗し、引退している。両者を整理すると次のようになる。
| 蔵前国技館 | 両国国技館(現在) | |
|---|---|---|
| 使用期間 | 昭和25年仮設〜昭和59年(約31年) | 昭和60年〜現在 |
| 成り立ち | 占領軍接収で開催地を失い、海軍払い下げの鉄骨で建設 | 一代の大事業として新設 |
| 場所 | 台東区蔵前(浅草橋・両国から徒歩10分) | 両国 |
蔵前国技館についてよくある質問
蔵前国技館はどこにありましたか?
台東区蔵前で、浅草橋・両国から徒歩10分の場所でした。地下鉄でも行くことができました。
蔵前国技館はいつまで使われましたか?
昭和25年に仮設で始まり、昭和29年秋場所に完成、約31年間使われたのち、昭和60年からの現在の両国国技館に引き継がれました。
蔵前国技館と両国国技館の違いは?
蔵前国技館は占領軍接収で開催地を失った大相撲が海軍の払い下げ鉄骨で建てた施設で、昭和59年まで使われました。現在の両国国技館は昭和60年から使われている新しい国技館です。
蔵前国技館の完成時の横綱は誰ですか?
昭和29年秋場所の完成時は、東富士・千代の山・鏡里・吉葉山が横綱でした。
関連記事:大相撲チケットの取り方(席の種類・買い方)/全勝優勝した力士 一覧