蔵前国技館

» 大相撲 » 蔵前国技館

6月21日、蔵前国技館を語るというテーマで呼ばれている。大相撲
文化掲載用とのことである。今の両国国技館は昭和60年から使用さ
れて現在に至っている。41年目に入っている。蔵前国技館を知って
いる者は年々減少していく。筆者も隅々まで知っているわけではな
いが、予備知識をまとめてみた。

旧両国国技館ことメモリアルホールは戦後占領軍に接収された。日
本人立ち入り禁止の立て札が立った。大相撲は開催場を求めてジプ
シーの状態がしばらく続いた。東京場所は明治神宮外苑、浜町仮説
国技館で興行した。大阪でも本場所を開催した。昭和22年から24年
までのことであった。

戦前から購入し、倉庫会社に貸し出していた蔵前の土地に国技館を
建てることにした。海軍の飛行機組み立て工場で解体した払い下げ
の鉄骨の骨組みと屋根と囲いはトタンぶきで突貫工事で間に合わせ
た。昭和24年から蔵前仮説国技館で始まった。

蔵前国技館絵葉書

蔵前国技館が完成したのは昭和29年秋場所だった。その時の横綱は
東富士、千代の山、鏡里、吉葉山であった。蔵前国技館は「夏は暖
房、冬は冷房」と長い間言われてきた。元双葉山の時津風理事長は
熱戦であったまってくれと語っていた。冷暖房設備は昭和45年内に
完成した。

蔵前国技館はとにかく広かった。お茶屋は外付けでその奥と正門か
ら入った。支度部屋の出入り口前までいけた。その前の通路で反対
の方屋の出入り口に行けた。支度部屋のから外に出ると駐車場であ
った。駐車場に立つと前後に開く窓から支度部屋が覗けた。

2階イス席はは急斜面ではなかった。2階の一番後ろに低くなった
通路があった。百聞は一見にしかず。ちばてつや作のたり松太郎
(漫画)に詳しく描かれている。浅草橋・両国から徒歩10分だった。
ほかに地下鉄があった。

蔵前国技館

蔵前国技館の鉄骨は旧海軍航空隊の飛行場の工場を組み立てた鉄骨
であった。そのため約31年間使用後新しい国技館に場所に移した。
新しい国技館を建設することは一代事業であった。横綱は北の湖、
千代の富士、北勝海から大の里までが土俵にあがった。もっとも北
の湖は2日間土俵に上がって連敗して引退している。

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次