横綱格下げ論、それは前田山引退の翌場所におきた。昭
和25年春場所(一月)は蔵前仮設国技館で初めて開催さ
れた記念の場所であったはずだ。ところがふたをあけて
みると、東富士が3日目から休場、照國が4日目から休場、
羽黒山が5日目から休場してしまった。横綱が3人もいな
がら、あっという間に横綱不在となってしまった。
羽黒山が5日目から休場してしまった。横綱が3人もいな
がら、あっという間に横綱不在となってしまった。
世論は横綱を糾弾した。5日目、協会は緊急役員会を開
き、横綱も2場所連続負け越せば大関に降格することを
決めた。ところが予想に反し、世論はこれに反発した。
「横綱はチャンピオンではない。チャンピオン同様の成績
を何度もあげて初めてなれるものだ」思ってもみなかった
世論の反対に、協会は横綱の格下げを白紙撤回し、横綱
審議委員会を新たに設置した。
を何度もあげて初めてなれるものだ」思ってもみなかった
世論の反対に、協会は横綱の格下げを白紙撤回し、横綱
審議委員会を新たに設置した。
昭和26年秋場所(九月)、こうした流れを受けて誕生した
のが、羽黒山、照國、東富士に新横綱の千代ノ山を加えた
4横綱である。この4横綱は5場所続いた。優勝は、東富
士が2回、羽黒山が最後の優勝と3度している。だが、のべ
10人と半数が休場するありさまであった。休場率は27.3%
であった(不戦敗を含む)。3場所連続休場の照國が引退し
て、4横綱の時代は終焉を迎えた。
て、4横綱の時代は終焉を迎えた。
次の4横綱時代は、昭和28年春場所(三月)鏡里の横綱
昇進によって誕生した。たった1度の優勝で横綱にあがった。
相撲ファン・マスコミにしても鏡里の横綱昇進は予想して
ないできごとだった。
昇進によって誕生した。たった1度の優勝で横綱にあがった。
相撲ファン・マスコミにしても鏡里の横綱昇進は予想して
ないできごとだった。
実は、この鏡里の横綱昇進は異例だった。協会は横綱審
議委員会に諮問せずに鏡里の横綱昇進を決定してしまっ
たのである。これに対し、横綱審議委員会は鏡里の横綱
昇進に同意せず、話はこじれた。元笠置山の秀の山理事
が了解を求めて奔走した。2日遅れでようやく鏡里の横綱
昇進が発表される始末だった。
議委員会に諮問せずに鏡里の横綱昇進を決定してしまっ
たのである。これに対し、横綱審議委員会は鏡里の横綱
昇進に同意せず、話はこじれた。元笠置山の秀の山理事
が了解を求めて奔走した。2日遅れでようやく鏡里の横綱
昇進が発表される始末だった。
の場所でさらに横綱の権威がゆらぐ事態が発生した。それ
が千代ノ山横綱返上問題であった。
が千代ノ山横綱返上問題であった。
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