大相撲

2024年3月大相撲Q&A

Q 幕内力士が最も多かったのはいつですか。

A 昭和32年春場所です。東西23枚で58人いました。
当時の横綱は千代の山・栃錦・吉葉山・鏡里でした。

<栃錦のブロマイド>

Q 旧両国国技館はどれくらい災害にあったのですか。

A 大正時代に火災にあって全焼しています。再建中
に旋風で大鉄傘がくずれています。さらに関東大地
震でも全焼しています。昭和戦時中に空襲で被災し
ています。このとき相撲部屋も焼失しています。

Q 新大関と新横綱で優勝したのは誰ですか。

A 双葉山です。双葉山は当時69連勝の途上にありま
した。

Q 柏戸は横綱直前3場所優勝がないのになぜ横綱に
なれたのですか。

A 大鵬と抱き合わせで横綱になりました。理由は大
関時代の成績が大鵬と遜色ないというものでした。
基準にない理由でした。

<柏戸>

Q 不戦勝不戦敗制度、取り直し制度はいつできたの
ですか。

A 公式優勝制度とともにできました。大正15年のこ
とです。預は即取り直し、引き分けは2番後後取り
直しました。不戦勝は通常の勝ち星より劣るという
考えがあった時期がありましたが、そんなことはあ
りません。そのことを徹底するために昭和3年不戦
勝の力士が土俵で勝ち名乗り受けることになりまし
た。これが現在まで続いています。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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