大相撲

消えた横綱の相撲部屋3

宮城山は四股名から宮城県出身と思いがち
だが、岩手県出身である。さらに東西合併に
より大阪から来た横綱である。けれども、
入門は出羽ノ海(当時は「ノ」の字があった)
部屋であった。入門当時の師匠は常陸山寅吉
だが、横綱常陸山谷右衛門の名声で多くの
弟子が集まってきていた。常陸山谷右衛門は
新しく部屋をかまえ、師匠夫妻をそこに住ま
わせた。

<宮城山のブロマイド>

宮城山が入門したのは明治43年6月だった。
だが、床山に大銀杏をゆってもらったのを
「生意気だ」と兄弟子に殴られた。それが
きっかけになって大阪の高田川部屋に移籍
した。東西合併のときの高田川は元早瀬川で
あった。

引退後は白玉部屋、さらに改称して芝田山
部屋をおこした。だが、幕内力士が育たない
なか、昭和18年11月腎臓病と脳溢血を併発し
て48歳で亡くなった。部屋は消滅したが、
後日談がある。弟子は高田川(元早瀬川)
部屋を経て高砂(前田山 当時二枚鑑札)
部屋に移籍した。そのなかから小結宮錦、
前頭筆頭嶋錦の幕内力士が誕生した。

<宮錦のブロマイド>

2代目海山から始まった部屋が二所ノ関部屋
である。2代目海山が死去して、玉錦はじめ
弟子は粂川(2代目鬼竜山)部屋に移籍した
ことがある。昭和6年10月場所から昭和9年
夏場所までである。以降玉錦が二枚鑑札(現
役と親方を兼ねる制度)として二所ノ関に
なった。

<玉錦のブロマイド>

ところが、玉錦が現役で急死したため、弟子
の玉ノ海が二枚鑑札となって部屋を継いだ。
戦中、戦後の混乱期をのりこえ、昭和26年に
部屋を佐賀ノ花に譲った。二所ノ関部屋は
大横綱大鵬の出現で花開いた。昭和50年3月
28日、佐賀ノ花の二所ノ関が57歳の若さで、
急性白血病で亡くなった。

<佐賀ノ花のブロマイド>

後継者候補は大鵬が降りたため元大関大麒麟
の押尾川であった。二所ノ関部屋の後継は
押尾川と遺族側との譲渡条件が話し合われる
ことになった。ところが、話し合いは金額差
から折り合わなかった。決定するまで部屋の
長老の元十勝岩の湊川が暫定的に二所ノ関と
なった。押尾川と遺族側の未亡人の話はいつ
までたってもまとまらなかった。元十勝岩の
暫定二所ノ関は五月場所、七月場所と持ち
越した。未亡人の思いは「押尾川には継いで
ほしくない」と心境が変化した。

昭和50年七月場所は大波乱の場所となった。
そんな中あれよ、あれよと抜け出して13勝
2敗で優勝したのが前頭筆頭の金剛(二所
ノ関部屋)だった。未亡人の頭に大麒麟の
押尾川の線は完全になくなっていた。思い
がけない金剛の優勝。未亡人は次女と金剛
を婚約させ、二所ノ関部屋の後継者を金剛
引退後に託すことにしたのである。

<大麒麟>

これでは押尾川の立場はない。このままで
は後輩金剛の下で、部屋付き親方で過ごす
屈辱的な図式になる。九月場所(14日初日)
前の4日、押尾川は協会(理事長春日野=
元栃錦)に押尾川部屋認可の嘆願書を提出。
青葉城、天竜ら16力士を連れて谷中の瑞輪
寺(ずいりんじ)に立てこもった。花籠
(元大ノ海)が調停に乗り出し、押尾川
部屋独立となった。ただ移籍人数は青葉城
を含む6人と少数になった。

もつれた二所ノ関部屋の後継者問題はさら
に思いがけない方向へむかった。翌年の
昭和51年5月金剛と次女は結婚式をあげた。
しかし、次女は金剛の元を離れて別の方と
生活するようになった。結局、金剛は未亡
人の養子という形をとった。この年の九月
場所前、金剛は引退し、正式に二所ノ関
部屋を継いだ。27歳のときだった。九月
場所後、押尾川についていったが、裁定で
二所ノ関部屋へ戻された天竜が廃業して
全日本プロレスに入門した。

<金剛>

欲望、分裂、怨恨、犠牲を生み出した二所
ノ関部屋の後継者騒動は金剛が継いでから
36年後、元金剛の二所ノ関が自ら終止符を
うった。弟子の数は最後5本の指で数える
ほどしかいなかった。部屋の消滅とともに
力士は全員引退した。本家二所の関部屋は
金剛の代、無残な形で自滅した。

(この項目続く)

歯医者にいってきました。              。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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