大相撲

大関の総合力1

2022年2月8日

最高位大関の大関時代の総合力を算出して
みた。なにをもって総合力というのかは難し
いところだが、以下とさせていただいた。

1.大関勝率
2.大関出場率
3.大関2ケタ勝利率
4.大関負け越し率

成績がよくなくては話にならいし、同時に
10勝以上が目安になる。また休場が多いのは
大関の責任から遠ざかっている。休場は多く
の場合負け越し扱いである。1から3を加点
し、4をマイナスポイントとさせていただい
た。

出場率は不戦敗を除いた数字とさせていただ
いた。なお引き分け等は0.5勝0.5敗とさせて
いただいた。対象は2場所連続負け越しで
降格が始まった昭和以降に誕生した大関と
させていただいた。2けた勝利は15日制を
基点としたものだが、11日制は7勝4敗以上の
成績、13日制は8勝5敗以上の成績とさせて
いただいた。また公傷は休場及び負け越し
扱いとさせていただいた。公傷の恩恵を受け
た大関はごくわずかである。

その結果最高位大関の総合力は以下となった。
貴景勝と正代は現役なので今後数字が変わる
ことがある。御嶽海はこれからでる。

昭和以降の大関ナンバー1は琴風となった。
琴風は地位があがったら、いままで以上の
努力した力士であった。大関勝率は高安に
抜かれるまでは、把瑠都と並んでトップだっ
た。休場は大関最後の場所だけだった。負け
越しは大関最後の2場所だった。大関降格後
も再起をはかったが、力尽きた。横綱のチャ
ンスはなかったが、大関の手本のような力士
であった。

<琴風>

次は戦前の清水川である。放蕩で本場所を
さぼり、追放されたことがあった。父が死を
もって協会復帰を嘆願した。これ以上ない
強烈な訴えだった。清水川元吉の元吉は父の
名である。復帰後精進して大関にまで昇進
した。昭和最強の大関。昭和唯一の名大関
とまで称賛された。

<清水川のブロマイド>

3位は把瑠都である。把瑠都も大関負け越し
は、大関最後の2場所であった。十両で全勝
優勝した把瑠都は、入幕して把瑠都旋風を
まきおこした。大関昇進は当然というほどの
力量であった。稀勢の里、琴奨菊を力でねじ
ふせてきた。阿覧を土俵の中で波離間投げに
したことは大変な印象だった。惜しむらくは
もう少し大関在位が長ければ、ということで
あった。

<把瑠都の波離間投げ>

(この項目続く)

寝不足です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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