大相撲

昭和8~19年までの初日千秋楽の曜日

昭和8年、春秋園事件で脱退した力士の復帰
が別席で別に番付に付けられた。興行は初日
月曜、千秋楽月曜がしばらく続いた。昭和
11年夏場所千秋楽が日曜になったが、単発で
終わった。双葉山が初優勝したのは昭和11年
五月場所であった。横綱玉錦と9日目の全勝
対決で双葉山が寄り倒した一番は覇者交代の
一番といわれた。

<双葉山のブロマイド>

昭和12年夏場所から13日制になった。相撲
人気は急上昇中であった。春場所は連日午前
中で売り切れ。双葉山の連勝で初日は前夜
から4000人のファンが国技館を囲うほど盛況
であった。双葉山の連勝は昭和14年春場所
4日目、安藝ノ海にストップされた。それは
日曜と薮入りが重なった日であった。薮入り
とは商家において住み込みで働いていた丁稚
や女中さんが実家へ帰ることができた休日を
いう。

<安藝ノ海のブロマイド>

さらに昭和14年夏場所から15日制となった。
初日木曜、千秋楽木曜が3場所、そのあと
初日金曜、千秋楽金曜が2場所あってよう
やく初日に日曜、千秋楽日曜となったが3
場所でおわった。昭和18年夏場所も初日に
日曜、千秋楽日曜の予定だった。だが、
4日目の夜、警戒警報が発令され、3日間
順延後5日目が開始された。

太平洋戦争の見通しは厳しさを増し、決戦
非常措置要綱によって国技館は軍部に接取
された。そのため昭和19年夏場所は後楽園
球場で晴天10日間興行をおこなうことになっ
た。初日は5月7日だったが、10日、17~
20日は雨。21、22日警戒警報発令で千秋楽は
23日になった。ちなみに7日目日曜は6万
3000人の観客が集まった。

<戦前絵ハガキ>

春場所は主に1月だが、厳冬の野外興行は
無理であった。昭和20年春場所は興行でき
ないため、昭和19年に秋場所として興行する
ことにした。場所は同じく後楽園球場、晴天
10日間興行をおこなった。11月5日の初日前
にいきなり警戒警報発令がでて、実際の初日
は10日となった。16日、18日が雨のため順延
となった。千秋楽は21日火曜となった。

大相撲にとって戦争はさらなる苦境をもた
らすのだった。

このテーマは労作です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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