大相撲

立浪(元緑嶋)が育てた弟子たち2

春秋園事件で力士大量離脱のため十両から
繰上げで入幕した力士が旭川と双葉山の立浪
勢であった。旭川26歳、双葉山は20歳と若か
った。昭和7年の春場所は1カ月遅れで2月
に開催された。東西制ではなく、系統別総
あたりに変わった。昭和10年春場所双葉山が
小結に昇進した。翌11年夏場所、双葉山は
関脇に、旭川は小結に昇進した。双葉山は
関脇で、11戦全勝で初優勝した。先場所から
双葉山の連勝は始まっていたが、当時は誰も
連勝の始まりとは気がついていなかった。

<双葉山のブロマイド>

双葉山は大関に昇進して2場所連続全勝優勝
して横綱に昇進した。この間旭川は関脇に
昇進していた。また、大八洲が昭和10年春場
所入幕した。長身だったが大成しなかった。
昭和12年春場所怒り金時名寄岩が入幕した。
立浪から緑川の四股名をあたえられたが、
そんな弱そうな名前は御免だ、ということで
出身の名寄市と本名の岩壁から名寄岩とした。

さらに、銭湯でスカウトされた羽黒山が序ノ
口・序二段・三段目・幕下・十両をすべて
優勝。各段を1場所で突破して昭和12年春場
所入幕してきた。とてつもないスピード出世
である。年6場所の現代では考えられない。
昭和13年春場所、小嶋川が入幕した。本名は
小嶋ではない。肋膜を患ったため幕内6場所
で終わっている。

<羽黒山のブロマイド>

大関で連続全勝優勝した双葉山は横綱に昇進
した。昭和13年春場所・夏場所と横綱でも
連勝は続いた。5場所連続全勝優勝である。
当時一代勢力を誇っていた出羽海部屋は、
打倒双葉はうちの部屋から出すと意気込んで
いた。昭和14年春場所、初日五ッ嶋、2日目
竜王山、3日目駒ノ里を退けて、ついに双葉
山は連勝を69までのばした。運命の日は4日
目にきた。前頭3枚目出羽海部屋の新鋭安芸
ノ海戦である。スピードある安芸ノ海とは
初対戦であった。

<安芸ノ海のブロマイド>

相撲はこう展開した。安芸ノ海突っ張って
いくが、双葉山下からあてがって対抗。され
ば安芸ノ海突き放しにいくが、双葉山右差し
を果す。安芸ノ海不得意の右四つになるが、
頭をつけて右下手を浅く引くとともに左上手
も引き、食い下がる体勢をつくった。双葉山
左は相手のひじをつかんでいたため、右から
すくい投げにいくがきかず。双葉山さらに
2度、3度とすくい投げにいくが、このとき
安芸ノ海の左外掛けの急襲に双葉山の腰が
くずれていった。時、昭和14年1月15日6時
32分、ついに双葉山敗れ、連勝は69でストッ
プした。

<双葉山(日本スポーツ出版社刊)より>

双葉山は昭和13年の夏、満州巡業でアメーバ
赤痢にかかり、体調は万全でなかった。また、
動揺すまいと思ったことが、意識しない動揺
につながったと自ら語っている。有名な「未
だ木鶏たりえず」という言葉を残している。
足掛け4年にわたる双葉山の連勝はこうして
ストップされた。

<双葉山のブロマイド>

立浪部屋が花開くのに双葉山の存在は大き
かった。だが、さらに大きく花開くのはこれ
からであった。

(この項目続く)

昔の夢を見ました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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